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近況・その7 (2004年5月)

近況・その7 (2004年5月)

2017年11月17日
近況

 最近、東京地裁通いが続いている。

 オランダハーグのフランス大使館占拠&人質奪還、クアラルンプールでのアメリカ大使館占拠&人質奪還作戦を敢行した和光晴生くん(日本赤軍)の意見陳述が行われるというので、スケジュールを調整して足を運んでみた。

 彼は、足立正生さん等とともにレバノンから強制的に日本政府に引き渡された経緯があるが、一時間にわたる意見陳述は、人を殺めるつもりはなかったが、結果的に傷つけることになってしまったとの自らの反省と謝罪をきちんと自己の中で完結し、現在の国際情勢に驚くほど精通し、痛烈な日本政府批判を繰り広げていた。

 彼の意見陳述が終わった後、あまりの素晴らしさに裁判所ということも忘れて思わず拍手してしまいそうになった自分を笑ってしまった。

 その数日後、今度は重信房子さんの公判があった。

それは誰に紹介されて会ったのですか? その時、誰がそばにいてどういう会話がなされたのですか・・・・などという弁護士からの質問が延々と続き、それに素直に明確に答える彼女の後ろ姿が印象的であった。

 足立さん他、数名は知ってる顔が見受けられた。もちろん娘のメイちゃんとその友達も来ていたが、休廷後に驚いたことに、くすんだグリーンのジャケットにチェックの超ミニスカートの女子高生が四人入って来て、オレの前の席におもむろに腰をかけた。

 おいおい制服向上委員会じゃないんだから・・・と苦笑する自分をたしなめながら見ていたが、どうやら社会見学か何かの一環らしく、よりによって重信さんの公判にねぇと、ちょっと面白かった。

 次回の公判ももうすぐあるが、これも出来る限り足を運び続けたいと思っている。

 時を経ずして先日、イスラエルに殺されたハマスのフィクサー、アハマド・ヤシン氏の弔問に行ってきた。

 オレの家の前の幼なじみの花屋のベンちゃんに、パレスチナをイメージした花を見繕ってもらい、テロ警戒のため厳戒態勢がひかれている永田町のど真ん中にあるパレスティナ領事館に行ってみると、レバノン大使館とかと同じビルにあり、さぞ厳重な警戒をしているんだろうなという予想を覆し、インターフォンを押すと無警戒にドアが開けられ、ようこそいらっしゃいましたとばかりに記帳部屋に通された。

 Panta FLying Publishersとわざと大文字のP・F・L・Pという字が目立つように書いてきたのだが、翌日、知り合いの女の子が、やはり記帳しに行ったところ、昨日は日本のロックミュージシャンの方も見えてくださったんです、と言われたので、オレのことを説明しておいてくれたらしい。

 その子に、Pantaさんのふたり前に橋本龍太郎の記帳があったの見ましたか?と言われ、アラブ文字しか並んでないと思って二人分上を確認しなかったオレは可笑しくてしょうがなかった。

 さてさて、このところ平和だったオレの回りもまたまた様々な機関にマークされはじめていることだろう。

 マークされるのはレコ倫だけで結構なのに。

(2004年5月)

近況・その6 (2004年3月)

2017年11月17日
近況

 去年の12月1日にパソコンを買い換えた。ほぼ10年ぶりに買い換えたわけだから、それはそれは縄文時代からいきなり近代へとタイムスリップしたような感じです。

 思えば壱号機は内田(筋肉少女帯)からPCクラブというNECの98を譲ってもらい、ネットにもつなげてなかったので、主にギャルゲーなどに勤しんでいたものです。

 実はその前にアスキーの雑誌でハイパーカードを使いこなすという企画があって、パソコンのパの字もわからないオレが、Macを使いながら、オレでも出来ますハイパーカードというのをやったことがあるのです。

 その時に、いまのようになくてはならないものになるとは夢にも思いませんでした。

そして譲ってもらったPCクラブに遊んで慣れたところで、スタッフのアキ(オレのPCドクター)に付き合ってもらい、秋葉へ行き、FMVのセットを購入したのだった。

 購入してすぐ、後楽園のジオポリスでアスキーのパーティーがあり、入るとそれはそれは大勢集まっており、巨大なプロジェクターが用意されて会場内を移動するカメラの映像が映し出されていたのだった。

 そしてそのカメラはオレが来たことで、おもむろにレンズを向けられ、質問が飛んで来たのだ。

 PANTAさん、パソコンを購入なさったそうですが、何を買われたのですか?

 アキに言われるままに買ったのでメーカー名も機種名もわからなかったこともあって、

「・・・・・・あぁ、本体とモニターです」

 真面目に応えたつもりだったのだが、回りの爆笑は、オレがかなりウイットに富んだ返しをした強者に勘違いされたことは、マチガイない♪

 アスカの声で弐号機起動!というかけ声と共に立ち上がるFMVは、ペンティアム133、メモリー48メガ、HDは付け足して1.6ギガ・・・

 それがそれが、昨年末に購入したマウスコンピューターはペンティアム4であり、メモリーは128MB、HDDは40GB。OSもWin2000、Meの時代を飛び越していきなりXPだよ♪

 PCの1年は7年に相当するということで「ドッグイヤー」という言葉で称されるが、これほどまでに進化したのか・・・そして安価になったのかと感無量なものがある。

 永六輔さんに言わせれば便利ってホントにいいものかということになるんだろうけど、最初は劇的な速さに驚きもしたが、その分ソフトの容量も大きくなっているので、もうすでに遅いなぁと慣れてしまってきたのが恐ろしくもある。

 そしてアナログ回線のままISDNも知らずに、またまたいきなりADSLになってしまった。

 デジタル回線にしてISDNにした人は、さぞ悔しがっていることだろう。

 一時期はPaw(SONY)というチャット島にハマって家を出なくなったこともあったし、音楽ソフトで自分だけのオーケストラを楽しんだこともあったFMVであったが、充分、元を取ったというより、よくここまでもったものだと回りから感嘆の声も上がっている。

 何と言っても、あと数回ハードディスクを回したら、おシャカになるところだったんだから・・・・・

(2004年3月)

近況・その5 (2004年1月)

2017年11月17日
近況

 頭脳警察の相棒のTOSHIが新潟の田圃で米作りを始めて、もう6年になろうとしている。

 前から一度来いと言われていたのだが、なかなか実現せずやっと稲刈りにだけ参加することが出来た。

 その昔、ZKでスタッフをやっていた者が、いま新潟の岩室で自動車修理工場を営んでおり、その関係もあってTOSHIは米作りが目的なのか、その後の宴会&温泉が目的なのかは知らないが、その友人関係のつてをもって始めることになったらしい。

 限りなく農薬を使いたくないというTOSHIに田圃を貸してるのは、無農薬派の地主で農薬賛成派の近所の仲間も加わって終わってからの宴会はそれは豪華なものであった。

“和して同ぜず”とは田中真紀子のダンナの弁であるが、農薬派と無農薬派が宴会で共に盛り上がるとは、新潟では基本の考え方らしい。これにはいたく感激したものである。

 前スタッフが日本海で釣ってきた、豪華な海の幸を前に繰り広げられる宴会は、カラオケこそなかったもののTOSHIの御乱行は相変わらずで、ここでもオレが頭を下げねばならぬのか(笑)

 刈った稲を一週間ばかり干す作業に入った時、となりの田圃の看板が目に入った。そこには“入るな、盗むな〜”何とかかんとかとやたらでかい字で書かれていたが、何とそれは立川談志の田圃であって、一週間後に刈り入れすることになっているらしい(笑)

 話は前後してしまったが、宴会まで時間があったので、以前走ったことのある弥彦スカイラインをひとっ走りして頂上から佐渡を見渡し、シーサイドラインを走って、宴会の始まる時間に宿泊の旅館に帰ってきた。

 翌日、以前から一度行ってみたかった糸魚川の翡翠狩りに行ってきた。新潟から帰るにしては遠回りになるのだが、北陸道をひた走り、上越市に入り糸魚川で下りると”ようこそヒスイの古里へ”の看板が目に入る。

 なにぶん初めてのことなので、わけもわからず近くの翠鳳堂という店でどこで拾ったらいいのかを聞くと、素人さんには難しいですよ、川は危険だし・・・と返されたが、しつこく食い下がると、親不知海岸にはよく観光客がいらっしゃるみたいですよと聞かされた。

 さっそくその親不知海岸へ行ってみると翡翠博物館なるものもあって、そこには最大級の翡翠の原石が中央に鎮座ましましていた。

 あいにく小雨日和であったが、欲に目が眩んだオレには海岸の石がすべて宝石に見えてしまい、これは翡翠に違いない、これは翡翠でなくても名のある石に違いないと、やたら拾いまくり、コンビニ袋三つくらい抱えて、翠鳳堂に戻ってみると、一生懸命、鑑定してくれたそこの若主人らしき人物に、残念ながら一個もありませんと冷たく言い放たれてしまった。

 親不知海岸のピアパークにある翡翠ふるさと館では、出雲の建御名方神と当地の高志の女王・沼河比売(ぬなかわ姫)とのラブロマンス&婚姻のエピソードを初めて知り、翡翠勾玉フェチのオレとしては、ちょっとした歴史ロマンの旅だった。

 爪の先程のかけらでも拾えたら感激しただろうに何の収穫も出来なかった腹いせに、その翠鳳館で翡翠の勾玉を買ってしまい、再度ここへ来て、今度は河に挑戦しようとリベンジの誓いを胸に雨の中を帰路についたのであった。

(2004年1月)

近況・その1 (2003年5月)

2017年11月9日
近況

今年(2003年)の1月に日比谷野音で「World Peace Now」のイヴェントがあり、そこに制服向上委員会とともに出演したのだが、その折り新宿ロフトプラスワンの平野氏からイラクへ行かない?と声をかけられ、条件反射的に二つ返事で行くと応えたのが始まりだった。

 そこへ元赤軍派議長の塩見隆也氏なども来て彼も行くと言うので、話がややこしくなるからやめようよと茶化したことがいまでも笑えます。

“パンタとレイニンの反戦放浪記”(彩流社)という本でこのイラク行き珍紀行のことは詳しく書かれているのでここでは簡単に話していきますが、そもそも一水会という新右翼団体の木村三浩議長が仕切ったもので、30数名の極右、極左、ダンサー、ロッカーなど入り乱れての言語道断、空前絶後の呉越同舟、いや左右同機のとんでもない珍道中が開始されたのである。

 砂漠を駆けめぐらなければならなくなったときの為のコンパスとか、カラシニコフをぶっ放すときのための軍手とか、泥水を飲まざるを得なくなったときの為に征露丸とか、あくまでも開戦した時を想定した戦時の装備でバクダッドまで出かけたのだが、いざ着いてみると、大会議場とかホテル会議場での交流及び各国関係者との集い、元駐日イラク大使が来たり、外務大臣やらバース党№2のマハディ・アマシュ女史とかがやってきて、やたらフォーマルなイヴェントが続くので、街に出て、結局、スーツを買うハメになってしまった。

 フォーマルと言えば、イラクファッションショーというのに招待されたのが、とびきり可笑しい出来事だった。

       おいおい、これから戦争だろ?・・・

       ファッションショーかい!?

 内容は古代シュメールからアッカド、アッシリア、バビロニアなどのコスチュームの変遷を男女6人くらいのダンサー&モデルで紹介していくというものなのだが、中世になるとそれこそ絵に描いたようなシンドバッドの格好になってくるのが、当たり前なのだが、笑えてならなかった。

(2003年5月)

近況・その2 (2003年6月)

2017年11月17日
近況

パレスチナホテルというのが世界的に有名になってしまったが、砲撃された15階のロイターの記者が泊まっていた部屋のすぐ上、16階の同じ角部屋がオレの部屋だった!

 衝撃的な映像を見ながら、まったく同じ構造の部屋を見て、まさに生々しいことこの上なかった。

 あのベランダに出て、いつも大統領宮殿を眺め、下の道路に停めてあるイギリスからヒューマンシールドとして来た二台の二階建てバスを見下ろしていたのだ。

 4000年の悠久の歴史を流れつづけるチグリス川を眺めながら、見る限り荒川のほうが立派に見えるぞとホテルの中二階のネットカフェからメールしたのが記憶に新しい。 

 しかしアメリカ軍が攻撃の事実を認めたとは言え、何とも納得し難いものが残っているのは否めない。

 戦車砲弾であったら、部屋全部が吹っ飛んでいるだろうし、あんな壁の傷で済むわけがなく、機関銃弾であれば、炸裂音がすることもない。

 なら、あの部屋を攻撃したのは何であったのだろうか。

 オレサイドの予想をまとめると40ミリグレネードがぶち込まれたと見るのが妥当だ。

 となると、地上にいるアメリカ軍兵士が撃ったのか、イラク軍のRPG竏窒Vでもあるまい。真相は闇に葬られるのかな・・・・。

 イスラムの国に来たことで、知識としては知ってはいるのだがということが数多くあった。まずバーがたくさんあるのだが、そこでは酒が出ることはない。コーラかジュースがメニューにあるだけである。

 コーラと言えば、ペプシしかなくて、コカコーラはユダヤ資本だから飲まないのだそうだ。イスラエルも化学兵器を積んだミサイルに戦々恐々としている折り、イラク人達との席上で、「スカッド爽やかコカコーラ♪」と言ってみたのだが、誰にもわかるはずもなかった。(もちろん、スカッドミサイルと『スカッとさわやか』をかけたのだが)

 しかし驚くべき事実を先日、入手してしまった。

 国として認められていないパレスチナをFIFA(世界サッカー連盟)は認めており、ワールドカップにも出場させているわけだが、そのスポンサーというのがコカコーラだというのだ。

 これには驚いた。何に驚いたって、双方のそのしたたかさに驚いたのだ。

 パレスチナ側もユダヤ資本とわかっていてスポンサードしてもらっているし、コカコーラも、我々はパレスティナを応援している、ということなんだろう。

 バクダッドでの、さるパーティー会場でパレスチナからやってきていたPFLPの青年達と意気投合してしまった。

 みんな赤と白のお馴染みのケフィーヤをまとい全員革ジャンで決めている。

 オレの事務所はPANTA・FLYING・PUBLISHERSで、PFLPだというと大喜びされて困ってしまった。

 軽い冗談に受けまくられると、どうリアクションしていいかわからなくなるというのも実感出来た夜であった。

 彼らにしてみれば、サダム・フセインはアラブ諸国のなかでも自分たちを強く応援してくれている。

 独裁であろうとなかろうと、自分たちの味方であることには違いない。

 日本もイラクには好かれている。何かというと広島・長崎が引き合いに出されて彼らと同じ体験を持つ国として、非常に親近感をもたれているのだ。

 少なくとも小泉さんがブッシュに同調するまでは。

 同じようにドイツ人はアラブ諸国の中で非常に好かれている存在である。

 それは今度の国連決議でフランスと並んで非戦を貫いたからではなく、ただ単にユダヤ人をたくさん殺したという一点からである

(2003年6月)

近況・その3 (2003年8月)

2017年11月17日
近況

開戦か否かの瀬戸際で訪れていたイラクを後に、砂漠のハイウェイをヨルダンのアンマンまで走り、まだ時間ではないとなかなか入れてくれない搭乗カウンターの若者とすったもんだしていたのだが、後に毎日の記者がクラスター爆弾の不発弾を爆発させたのがこのカウンターで、ひょっとしたら死んだのは彼だったのかもしれないなぁなんて思ったりするといたたまれなくなってくる。

 当の記者くんの一生をかけて償うという言葉通り、背負いきれない罪の重荷を背負った彼の背中に非難の言葉を投げつける気持ちなどさらさらないが、あれが搭乗カウンターでなくて飛行中の貨物室の中で爆発していたらと思うとゾッとする。

 しかしひとりの死を問われた事件と比べ、膨大な死者数をいまだに出しているにも関わらずイラク戦争の中では人命が軽く報道され、朝のニュースが終われば、昼には忘れられていく。どんどんと安っぽくなっていく反戦・平和の言葉とともに命の値段もデフレに準じているようだ。

 国連を無視してイラクに侵略したアメリカ、がいまになって国連に助けを求めて来ている。“ふざけるんじゃねぇよ”でしょ。

 ベトナムで泥沼にハマったアメリカは、木村三浩(一水会)に言わせれば、イラクでは

アリ地獄にハマっていくのだろう。

 そんなところへ侵略軍に加担して自衛隊を送りこむという小泉さん。その一点だけでオ

レはあなたに反の字です。

 歴代大統領の中で、IQ最低のブッシュとの約束がどんなものであったのかは知らないが、少なくとも国を守ろうという若き純粋な自衛官を無駄死にさせないで、天下り官僚どもをまとめてイラクに放り込んだらいかがでしょうか。よっぽど日本の未来の為になると思いますが・・・・ 。

(2003年8月)

近況・その4 (2003年12月)

2017年11月17日
近況

親父が死んだ。

 2003/9/27の午後だった。

 その日、母屋の方へ顔を出すと、本当はお彼岸中に行きたかった親戚の家に彼岸明けになってしまったけど今日、行くという。

 彼岸中に付き合えなかったオレはその日も、「今日は高円寺でこの本(パンタとレイニンの反戦放浪記)のサイン会なんだよ。一緒に行けないや・・、暗くならないうちに(親父は目を手術した後、夜がまったくダメになった)明るいうちに帰って来いよ」と答えると、「あぁ、じゃその本は後でゆっくり読ませてもらうよ」と言った親父の言葉が最後の会話だった。

 高円寺の文庫センターで行われていたサイン会の途中で連絡が入ったのだが、これが終わらないことにはどうにも動きが取れない。連絡によると、トラックと正面衝突し、親父は即死、同乗のおふくろは重体で現在手術中だという。

 サイン会が終わり、二次会はパスさせてもらって渋滞の中を家へ車を向かわせた。

 病院へ一直線に行くべきなのであろうが、親父やおふくろの知人、親戚などに電話しまくらねばなるまいし、となると住所録や携帯の充電器も必要になってくるだろうという考えからであった。

 途中、すでに駆けつけてる親戚縁者から絶え間なく携帯に手術の経過報告が入り、ひょっとしたら足の切断になってしまうかもしれないとのこと。

 渋滞の中でハンドルを握りながら、あんなに仲の良かったふたりだけに一緒に逝っちゃってくれてもいいのかな、などと不謹慎な想いが頭をよぎったりもしていた。

 病院へ着き、親戚が集まる中、手術室の前で待っていると、ほぼ7時間の手術を終えて、昏睡状態のおふくろが、何か悪夢でも見ているのであろうか首を激しく左右に振りながら運び出されてきた。

 手術前に輸血の許可書には自分でサインしたらしいし、7時間の手術を敢行してくれた外科の先生にも感謝したりないくらいだが、その大手術に耐えたおふくろもスゴイと思った。

 四肢骨折、とくに右大腿骨の開放骨折のせいで悪くすれば切断と聞かされていたのだが、エアバッグのおかげで内臓および頭部にダメージはさほどなく結果的にそれが命を救ってくれたのだった。

 ICU(集中治療室)の前で手術の報告を受けたのだが、右大腿骨は状態がひどかったので洗浄だけにしておき、また再手術をしますとのこと。その時もし感染が発覚した場合、手術は中止し、傷口は閉じ、その状態が収まった時に再度、また手術することにしますと言われ、最後に念を押すように、その場合、その感染状態が広がっていた場合、切断という結論を下さねばなりませんと言われた。

 手術報告を受けた後、その足で今度は親父の遺体を安置してある警察署に赴き、遺留品などを受け取り、いくつかの書類に書き込んで、親父がセンターラインオーバーし、対向してきた8トンの大型トラックと正面衝突したと報告を受けた。

 これまた何と言われても致し方ないが、親父の死などよりも、親父のミス(原因を探っても憶測にしかならないのでやめておく)で、迷惑をかけたその相手のドライバーの安否が気がかりで仕方なかった。

 幸い、そのドライバーは衝突した際、踏ん張った結果、小指の骨折だけで済んだと聞き、まずは安心した次第。

 さっそく翌日、謝罪の電話を入れさせてもらうと、相手の方に親父の死、及び母の容態を心配されて、改めて、その気持ちのお礼と謝罪を繰り返し伝えた。

 ぶつかった後で親父の車は13メートル引き戻されたらしいと聞いた。翌日、遺体引き取りの際に車を見せてもらったが、それはそれはグシャグシャで悲惨なものであった。エアバッグの威力は絶大なものがあり、親父の場合、ステアリングシャフトが飛び出してきてしまってエアバッグは効果を発揮してるのだが、そのシャフトで胸を強打し、多発骨折による出血死というものだった。今後、メーカーにはステアリングシャフトが途中で衝撃を吸収するなり折れるなりの対策を望みたいものだ。

 その晩から、今度は親父の通夜、葬儀の話も進めなければならず、斎場のスケジュールなどを鑑み翌々日の29日が通夜、30日を葬儀と決定した。

 普通という言葉が適切かどうかわからないが、親父かおふくろかどっちかがいれば、連絡しなければならない知人とかが明確になるのだが、どっちもいないというのはこれまた困難な作業だった。

 しかし親父には悪いが、早いとこさっさとこっちを終わらせないと、戦ってるおふくろの面倒も見られないので、連絡も行き届かないつつも、何とか無事に葬儀を終えることが出来た。

 後でゆっくり読ませてもらうと言っていたので、例の“イラク本”も棺の中へ入れさせ

てもらった。

 足を運んでくれた方々、励ましてくれた方々、手伝ってくれた方々、メッセージ及び献花してくれた方々、多数、名前は全部あげきれませんが、この場を借りて深くお礼を言わせてもらいます。

 告別式を終えて数日後、今度は5時間という時間をかけて、おふくろの二度目の手術が行われた。

 右大腿骨の縦割れの部分をピンで留め、骨の中にパイプを埋め込み二本のスクリューで止め、膝上の欠けた部分は人工骨で補うという、それはそれはすごい手術であった。

 幸い、もしもと予告されていた感染症は発症しておらず、手術中の合併症も起こさず、スムーズに事は運んでいった。

 しかしオレにはまだ最大の問題が残されているのだった。再手術後、安定してきたのを見計らって、親父の死のことを告げねばならなかった。

 それまで、何度となく親父のことを聞かれたりもしていたのだが、違う病院で頑張ってるから早く自分も良くならなきゃダメだよと嘘をつき、あまり信じられても困るように適度に、お茶を濁していた。ひとりになったとき、もしかしたらと疑いを持たせるくらいの加減で徐々にそのときの覚悟を固めておいてもらうためだ。

 そして手術後、週明けの月曜日、いままでオレが生きてきた中で一番、辛く重い日がやってきた。

 病室を訪れると、ちょうど食事時にあたり、食事をさせ、うがいをさせ、薬を飲ませた後で、「実はね、おふくろ・・・」「親父は即死だったんだよ・・・」おふくろは静かに落ち着いて聞いてくれていた。

「そうでしょ、そうだと思った。」

「だってあのとき、もう息してなかったもの」

「・・・・・・・・・・・」

救急隊が手をつけられずレスキュー隊が車を引きはがしてるときに、元看護婦であるプロの目は、意識朦朧の重体の中でちゃんと親父を見届けていたのだった。

 しばしの会話を経て、関節リウマチと呼吸器系で苦しんでた親父の高齢者介護を覚悟してたオレでもあったが、「お父さんは、苦しまなかったし、幸せだったよね」と、さっそく生来の明るさを取り戻し、慰めの言葉を探していたオレに肩すかしを喰わせたのであった。

 そんなある日、ベッドサイドに腰を下ろしたオレにボソッとおふくろが呟いた。

 テキパキと世話をしてくれている看護士(オレはいまだに看護婦という呼び方のほうが良いと思う)さんが去った後、「わたし、あそこまでしてあげられてたかしら・・」

 オレは言葉を失ってしまった。自分がこんな重傷でベッドに横たわっているというのに、看護婦時代の自分を反省しているおふくろを前に、ナース魂を見るというか、改めておふくろの優しさに、思わず涙を流してしまうところだった。

 いま(12/7)は右手で字も書けるようになり、病室で退屈さに悲鳴をあげるくらいに元気になっている。

 来週にはリハビリで有名な近所の病院への転院の話をしに行くことが出来るようになった。

 いま家では埋葬せずにおいてある親父の遺骨が、おふくろが退院して帰宅するのを待っています。

 長文になってしまったが、これを避けては通れない。これを書かないことには、他のことなど書けやしない。

 あまりに気が重く、時間の余裕もなかったのでなかなかその気になれなかったが、やっと、ありのままを綴ってみることが出来た。

 本当にファンのみなさん、友人、知人、近所、親族のみんなに世話になり申し訳なく、そして感謝の気持ちでいっぱいです。

 再度、言わせてください。本当にありがとう・・・・・PANTA 

(2003年12月)

1975年12月31日 渋谷の屋根裏にて

2017年11月17日
自分史

 1975年12月31日 渋谷の屋根裏にて頭脳警察は、ほぼ5年間の活動にピリオドを打った。

 その後、オレはソロ、PANTA&HALなどを経て、1990年に頭脳警察を一年間限定で再結成することとなる。

 そして現在、再々結成(?)した頭脳警察としてTOSHIと共にまた暴れようとしてるわけだが、ここではいままで書かれるだけであったオレ、及び周りの状況などを、自らの再確認の意味も踏まえながら、音楽の話を中心に自分の言葉で語っていけたらと思う。

 オレは1950年2月5日(正確には4日)に、埼玉県所沢市で生まれた。

 呼び方が難しいのだが、歴史教科書的には第二次世界大戦なり太平洋戦争なりが終わった1945年から5年後のことであり、朝鮮戦争勃発の年でもある。

 確かに空には双胴の悪魔と呼ばれたロッキードP−38とかが飛んでいたり、防空壕の跡があちこちに点在していたりして戦後の雰囲気は子供心にも充分理解出来ているのだが、どうしても遠い昔の話、教科書の中だけの戦争という感じが拭えないのである。

 いまのオレにとっては5年前というと、ほんのちょっと前という感覚なのであるが、同様にいまの20代にとってはベトナム戦争なんて教科書の中の戦争であり、いま生まれた子供達にとってはイラク戦争なんて教科書にも乗らない些細な出来事であるに違いない。

 父親は民間人として米軍所沢キャンプに勤務し、輸送課長という職務についていた。

 母親は所沢国立病院に看護婦として勤務し、オレはほとんど祖母によって育てられた。

 祖父はオレの生まれる遥か前の1937年に他界しており、祖母は1993年に92才で大往生した。

 家系に関しても両親に関しても、出生そのものも当たり前だが、その後のオレに大きく関わってくるので、後で詳しく綴るとして、ここでは紹介程度に抑えておきます。

同時に各項目などにも細かく関わってくるだろうから、その都度、触れていければと思う。

 街に音楽が溢れているという状況でもなかった。よく戦後の町並みを背景に”りんごの唄”とか”丘を越えて〜♪”などがテレビでよく流されるが、そんな状況、一度だって、見たこともない。

 もっともここが浅草でなく、所沢ってこと故なんでしょう。

 7,8才の頃だったと思うが、ラジオ局のインタビューを受けたことがあって、その内容というのが、ジャズと歌謡曲とどっちが好きですか?という質問であった。

 当時は演歌だろうが何だろうが日本のものは歌謡曲、洋物は何だろうがジャズと呼ばれていたらしい・・それがわかるのはしばし大人になってからのことなのだが・・・・

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