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ラジオの電話リクエストとか

ラジオの電話リクエストとか

2017年11月17日
自分史

 ラジオの電話リクエストとか音楽番組がとっても刺激的だった。

 三号テープというとっても小さなオープンリールを使う、とっても小さなテープレコーダーを買ってもらった。そのマイクをラジオに近づけ、音をたてないようにして録音するのだ。いまだったら考えられないくらいの超アナログな行為であり、音も劣悪そのものであったが、好きな歌を繰り返し聞けるということがものすごく嬉しかった。

 その後、卓上プレイヤーを買ってもらい、買った店でおまけでシングルを二枚つけてくれるというので、クリフ・リチャードの“サマーホリデイ”とビートルズの“ツイスト&シャウト”を選んだように記憶している。

 ついでに奮発して初めてLPというものを買ってみた。

 アルバムジャケットが、ジャック・ブラバムというレーサーが作ったブラバムのフォーミュラカーの写真で、内容もわからないまま、ジャケット写真だけで買ってしまったのだ。中身はサーフィン・ミュージックの後がまとして登場したホットロッドという、車の爆音などが挿入されているジャンルの曲が詰め込まれており、演奏しているアーティストはディック・ディル&デルトーンズというグループだった。

 レコード棚を捜せば出てくると思うのだが、“マイ ジャガーXKーE”とか車の名前が連発される曲などが印象に残っており、小林旭の自動車唱歌とはまったく違うが、結構好きで聞いていた。

 前述したようにレコードというのは中学生にとってはとっても高価なものだったので、もっぱら中古レコード屋通いが続いていた。

 ビートルズが世に登場し、日本にもその旋風が吹き荒れだした頃、何が“プリーズ・プリーズ・ミー”だ、何が“抱きしめたい”だ・・・と、その軟弱さに拒否反応が起き、やっぱりオレはエルヴィスだった。

 そんなときラジオで耳にしたのが“ツイスト&シャウト”で、このワイルドさには、すっかりやられてしまった。

 もちろんB面に収められていた“ロール・オーヴァー・ベートーベン”もそれに拍車をかけたことは間違いない。

 ビートルズはレノン&マーカートニーの連名で数々の名作を世に出してきたが、この“ツイスト&シャウト”も“ロール・オーヴァー・ベートーベン”も彼らの作品ではない。初期のビートルズに数多く見られる一連のカヴァーの曲であるのがわかるのは、それから随分と年を重ねてからだった。

 遣隋、遣唐使、そして明治維新と日本の音楽が大きな変革を迎えたときは二度あるが、太平洋戦争に敗北してアメリカの音楽が大量になだれ込んできて、さらに60年代に入り、今度はビートルズが、戦後のベビーブームで生まれた若者達の心をしっかりと掴んでしまったのである。

 ビートルズがヒットチャートを独占する中、いわゆるリバプールサウンズと呼ばれるイギリス出身のアーティストによる曲もどんどんチャートインし、ミュージックライフを筆頭に音楽雑誌が本屋の店頭に大量に並び、こぞって情報を仕入れようとする若者が買いまくっていった。

 このオレも例外ではなく、もっぱらヤングミュージックという雑誌を愛読していた。この雑誌は主にカラー写真が充実し、情報というよりはそのアーティスト写真を楽しめるようになっていて、動く映像などは望めないその当時のオレたちにとっては、ファッションとか楽器とかステージ写真とかの貴重な情報源であったのだ。

 レコードの内容などは買ってみなければわからないことが多く、最初のLPレコードをジャケット写真で買ってしまったように、レコード屋でジャケットのイメージで買ってしまうことも多々あり、買った後で、あぁこれは当たり、これはハズレと友人達と話していたのも日常の風景であった。

 そして人並みに、世の流れとともに、ビートルズにハマリまくり、R・ストーンズ、アニマルズ、スペンサー・デイヴィス・グループと、どんどん黒っぽい方へハマっていったのであった。

エルヴィスに夢中だった

2017年11月17日
自分史

 エルヴィスに夢中だった。

エルヴィス・プレスリーの映画を盛んに観に行き、中古レコード屋で彼のレコードを探しまくっていた。

 まだまだレコードは値段が高く、アルバムは1800円、シングルは360円の時代であったが、小学生中学生にとってはとても手が出る金額ではなかった。

 家の近所の古着屋でGジャン&Gパンを買い求め、裏地が真っ赤なダブダブのGジャンで不良を気取ってたのもこの頃だ。

 不良を気取ってたからであろう。仲間と二人で街を歩いているとき、さらに不良な四人組に因縁をつけられ、オレがチェーンで首を絞められ壁に押しつけられている間にもうひとりは袋叩きにされ、顔もボコボコにされたことがあった。

 自慢ではないが、オレはバイクの事故でも怪我をしたことがないのだ。

 喧嘩でも目に青タン一回作っただけだ。この時は一週間、左目から青あざが消えなくてとってもカッコ悪かった。

 痕は残らなかったけど、一度、相手がチビだったので油断して大失敗したことがある。

 相手の先制攻撃がオレの喉仏を直撃し、息が出来なくなってもがいている間に、これまた袋叩きになってしまった屈辱的な手合わせだった。

 おっと、話がそれてしまった。

 どうしてもエルヴィスというと、オレの場合不良という言葉を出さないと成立しないのだ。

 オレがエルヴィスを好きになった頃は、すでに彼は中年の域に達しており、髪もオールバックで小綺麗にまとまり、一年に一本の割で映画を作り、そのサウンドトラックが発売されるというローテーションだった。

”いとこにキッス””ラスベガス万歳”とかさわやか青春ものというイメージが押し出され、オレの思うエルヴィスのイメージは、そこに見つけることは出来なかった。

 オレにとってのエルヴィス・プレスリーとは”ハウンド・ドッグ”であり、”監獄ロック”であり、”ハートブレーク・ホテル”であり、”恋の大穴”であり、エド・サリバン・ショーで腰から下の動きが卑猥すぎるということでバストアップしかカメラに収められないというような、あくまでも不良、そして反社会的なものがエルヴィス・プレスリーなのである。

 あの時代、如何に、というか、だからと言うかミシシッピー生まれの白人のエルヴィスが黒人のような歌を唄ったということは、差別社会のアメリカにとって相当ショッキングな出来事であったろうと想像するにあまりある。

 世の保守主義者が眉をひそめるなかで、圧倒的に若者達は、この時代の寵児を支持し、歓声を送りつづけたのだ。

 前述のフォスターもそうである。

 こよなく黒人音楽を愛していたフォスターへの風当たりは、とてもいまの我々には想像出来ない。

 いつの世も時代を変えるものは、既存のレールを走って来たものに疎まれるのが運命だ。

 逆に、いくら反逆的、攻撃的なものであっても、認知されてしまうものなど、その程度のものと思って良いだろう。

 モーツアルト、フォスター、エルヴィス、ビートルズ、セックスピストルズ、エミネム、次の時代に雄叫びをあげるのは、一体、どんな奴なんだろう。

父親が米軍キャンプに勤めていた

2017年11月17日
自分史

 父親が米軍キャンプに勤めていたこともあって、ボロ家ではあったが、家にはアメリカ人の来客などもあり、連れて来た子供と一緒に遊んでいたことも記憶にある。

 子供ではあったが、やたら体毛が濃いのに驚いて、その産毛を引っ張ってからかい、あげくに取っ組み合いの喧嘩になってしまったこともいまになっては懐かしい想い出です。

 時たま祖母の作った弁当を持って、基地で働く父親に届けに行くことがあった。

 フェンスに囲まれた中央にゲートがあり、白いヘルメットをかぶった衛兵が二人、小さな電話ボックスのような詰め所に控えている。

 中村です、と名前を告げると、ちょっと待っていてね、とおもむろに電話を取り上げ、その部署らしきところに連絡して、なにやら英語で喋っている。その手際よさに、フェンスの外の日本では、まず見られない規律という空気に触れたような気がしていた。

 しばしゲートで待っていると、部下にジープを運転させて、オリーブ色の軍用服に身を包んだ父親がやってきて、ご苦労と敬礼をしながら弁当を受け取り、手を振りながらまたジープに乗って去って行く。

 この光景は子供心にいたくカッコいいものとして目に焼き付いてしまっている。

 所沢では市民との交流を図るイヴェントとして桜祭りというのが開かれていて、その日だけ基地が一般に公開される。

 父親が忙しいので、父親と仲のいいメリック軍曹という人物にオレは預けられ、彼が親身になって一緒に遊んでくれた。

 ある戦車の前にくると彼に乗れと促され、上ろうとしたその鉄板の厚さに、ひどく感動した覚えがある。

 てっぺんの回転砲塔にたどり着くと、上部がオープンになっていて、変な戦車だなぁと思いながらも、そこから中に入り込み、操縦席に座り込んだ自分はすでに気分はいっぱしの戦車兵と化していた。

 遊び疲れたオレが、芝に覆われた基地内の小高い丘に寝そべっていると、隣に座って彼がハーモニカを吹き出した。

 夕闇が迫り、夕陽が彼の横顔に深い陰影を作りながら、目をかすかに閉じたオレの耳には、彼のハーモニカのメロディーが、どうしようもない感情の初体験として、押し込まれ

て来たのである。

 まだどこへも遠くへなど出かけたことのない子供に、それは耳ではなく、頭の先からつ

ま先まで、郷愁というような感情で包み込まれてしまうような初めての体験であった。

 家へ帰り、かつていままでなかったであろう真剣な眼差しで、父親に、メリック軍曹が

吹いていたあの曲を教えて欲しいと懇願していた。

数日経って、父親に英語の文字が書かれた紙切れを手渡された。

 小学生であったオレには英語などわかろうはずもなく、父親はその英語にカタカナで読

み方を書いてくれた。

 オゥ ザ コットン プライズ イン ザ メイド イン ザ ホーム〜♪

 後に知ることになる有名なフォスター(Stephen Collins Foster 1826〜1864 アメリカの作曲家)の“ケンタッキーの我が家”であった。

 メリック軍曹のハーモニカは、それは基地内でも評判のものだったらしい。

 さらに黒人グループと集団で喧嘩になったときにも先頭にたって暴れまくる腕達者でもあったらしい。

 あの丘で吹いてくれたハーモニカは、オレだけのために吹いてくれたわけでもないと気がついたのは、ずいぶんと経ってからだ。

この極東くんだりまで来て、夕闇迫る丘の上に座り、吹いた“ケンタッキーの我が家”は、彼の気持ちそのものだったといまは確信している。

 その後、彼がどうなったのか知るすべもないが、これは“J”という歌の中で、オレの想いとして唄に託していることは知ってる人も多いだろう。

 そして、オレは自分の曲のどこかに必ずフォスターの匂いをかぎつけてしまう。

特にスローな曲の場合、それは顕著に現れ拭い得ないトラウマとして、いまも仲良く一緒に暮らしているのだ。

近況・その14(未掲載) (2005年2月)

2017年11月17日
近況

“クリスチャンじゃねぇのに騒ぐんじゃねぇよ”というコンセプトで始めたUnti・X’masも去年で四年目になった。

本来はAnti・X’masなのであるが、オレがAをUとスペルを勘違い(途中で誰か気づけよ!)してしまい、ウンチクを語るウンチクリスマスとして強引に続けてきてしまった。

一回目はゲストに短歌絶叫詩人である福島泰樹さんを呼び、彼は法華宗の住職でもあるので、法華宗からクリスマスに対してひと言と振ると、福島さんがいきなり大声で

「くたばれーっキリストーッ!」と叫ぶので、思わず、福島さん、もうキリストはくたばってるんですけどと突っ込みを入れてしまった。その後で、福島さんは坊さんなんだから、まさかクリスマスなんて縁がないんでしょ?と聞くと、

「いや、昨日のうちにやっておきました」と応えられ、どうリアクションしていいか困ってしまった。

最初はオレがパンタクロースとして、いろんなゲストを呼び、来てくれたみんなでワイワイガヤガヤとやる立食パーティーのような形式を考えていたのだが、やっていくうちに、やっぱりコンサートのウェイトが大きくなっていき、アンチと言えどもやってることは普通のクリスマス・コンサートと同じという形に落ち着いてしまった。違いはプレゼントであろうが、パーティーであろうが、前にアンチ(Unti)という冠詞?が付くか付かないかだけである。

クリスチャンはちゃんとクリスマスを祝えばいいし、エホバの証人などのように教会を持つことも拒否し、クリスマスも神とは無関係という人は、それはそれで良いのであって、信教の自由をとやかくいうイヴェントではないということは断言しておきたい。最初は冗談で、会場へ降りてくる階段にキリストとか13使徒とかマリア様の絵とかを貼り付け、踏み絵階段にしようかなどという案も出たのであるが、そうなるとこれは踏みたくないと三段跳びくらいで降りてこられて怪我をされても困るということで、この冗談みたいな案は自分の中で却下してしまった。

話は遡るが、オレの通った幼稚園は“こひつじ幼稚園”というところで、マリア様にお祈りしないと、おやつのミルクをもらえないという、それはそれは厳格?な幼稚園であり、このこともトラウマになっているのかもしれない。

話はそれてしまったが、二回目のゲストは社会学者の宮台真司くんに来てもらった。

トークステージの出待ちのときに、

「ずいぶんと大上段に振りかぶったものですねぇ・・」と言われてしまったことを印象的に覚えている。

で、本編の話は、赤いチェックのミニスカートを嫌いな男はどこにもいないという、クリスマスとは何の関係もない話で終わってしまったのだが、睡眠時間を一日2、3時間しか取れない忙しさの中で来てくれたことだけでも感謝したい。

三回目のゲストは橋本治であり、いま“上司は思いつきでものを言う”という本を書いてるんだよぉという話で始まり、後は、オレが彼に

「早くちゃんと仕事しようよ!」と言われ続けて終わってしまった、はい、今年はちゃんとやりますよぉ! → 橋本様

そして昨年が四回目になるUnti・X’masであった。今回は恒例の曲として演っていた”悪魔を憐れむ唄”、そして今まで秋間に唄ってもらい、オレがベースを弾く”アナーキー・イン・ザ・UK”は外し、いつものパンク・バージョンの“WHY X’mas?(White X’masではない!)”だけをやった。今回はI’m dreaming of〜を、I wonder that 〜に歌詞も変えて歌ったのだ。

ちょっと前にレッド・ツェッペリンの訳詞を宝島のムック本でやったのが意外な反響を呼び、他のアーティストの曲も訳して、それを一冊にして出したいというリクエストが来ており、そのついでと言っては何だが、今回はアナーキーの茂プロデュースのカヴァーアルバムでやった“ハウンド・ドッグ”と、新たに“DOG”のあとは“GOD”でしょうということでジョン・レノンの“GOD”、そしてビートルズの“REVOLUTION”を、オレの訳詞で唄ってみた。

ベートーヴェン好きであった故義父が以前、訳詞で唄うというのは作曲者に対する冒涜だと語気を荒くして言っていたのが思い出されるのだが、歌詞の意味を伝えるという重みのほうをオレは選択した。5曲オープニングアクトとしてやり、AKIMA&NEOSに引き継いだ後、今回、わざわざ足を運んでくれた重信命さんにトークゲストとしてステージに上がってもらった。いつも政治的な場などで固い話を強いられている?彼女だと推察されるので、出来るだけ今日は楽しんでもらおうという気持ちもあり、なるべく楽しい話でいきましょうということで始まった。レバノンのクリスマスの話や、若者のファッションの話など、とても興味深い話をしてくれて聞き入ってしまいました。

特に世に知られている、お母さんである重信房子さんの書いた“林檎の木の下であなたを生もうと決めた”という本の話をしたときに、

「林檎という言葉にレバノンと日本というふたつの故郷という意味が込められている」と聞いた時には、返す言葉も見つからないほどの感情に身を揺さぶられてしまった。

彼女を拍手で送り出した後、今度は鈴木慶一とのトークであった。彼は本当に心を許せる友人であり、過去に敵対関係にあると錯覚していた時代が信じられないほどの付き合いをさせてもらっている。アルバム“マラッカ”で知り合った慶一との付き合いは、まるで“幼な馴染み(歌:堀ちえみ、詞曲:オレ、編曲:鈴木茂(はっぴいえんど))”のように腹を割って話せる相手であり、故にトークと言ってもほとんど内輪の馬鹿話で終わってしまうのが常なのであるが、今回は、彼がつい最近やった“座頭市”の映画音楽などにも触れて、オレとしてはなかなかのホストぶりではなかったかなと思ってる。

面白かったのは、昔っから、ロックのコンサートでは付き物の客を煽る言葉のこと。

ずっと昔から模索していたことを、客に逆に聞いてしまったことだ。アメリカンな煽り言葉が日本でも定着しているが、あまりに陳腐で、とってもオレには出来ない。

以前、みんなどうしてるんだろうと、いろいろ聞いていたところ、オレのPAエンジニアをやってくれている高沢良が、メタルの連中のライブを一回聴きにくれば?と言ってくれた。客がパラパラとしかいない狭いライブハウスで、ヴォーカル君が、

「そんな後ろのほうで座ってばかりいると、お尻が椅子の形になっちまうっぜぇーっ!」と叫ぶという話を聞いた時には、受けすぎて腹を抱えて笑ってしまった。

で、今回、こういうことを叫ぶ連中もいるんだよと、オレもその言葉を発してみたのだが、こういうことを言うやつもいて可笑しかったという注釈を付けなかったもので、そのまんまオレが発した煽りの言葉と受け取られ、客席にいるお客の顔に縦スジがいっぱい浮かんでいるのが見られ、逆にオレの顔に縦スジが何本も引かれてしまった。

元々ロック自体が、アメリカで発祥しているわけで、いざ日本の煽り言葉というのを探してみてもこれがなかなか見つからない。

ソイヤソイヤッ!ヨイショッ!オラァ〜ッ!まして”エイエイオーッ”などと、ときの声をあげても始まらないし、この辺は桃尻言葉の大家である橋本治先生に、日本の煽り言葉について聞いてみてもいいのかな・・・。

それで思い出したのだが、彼が中央公論社の軽井沢の寮に半年も引きこもって“窯変 源氏物語”を書いているときに、電話してきて、

「いやぁ、大変なんだよぉ〜っ、雅楽の演奏会って、現在で言えばライブじゃない? で、そのライブの高揚感を横文字を使わないで表現するってのがとっても難儀している・・」という。確かに平安の宮中での演奏会にエキサイティングだとか、グルーヴがとか、Fuck!とか使えるはずもない。

やっぱり元々オレ達の身体には、そういうDNAは組み込まれていないんじゃないかとも思っているのだが、それなりに気持ちが高ぶったのなら、自然に思いの丈をぶつけていくのがオレらしくていいかなと思いつつも、いまも心のどこかで煽り言葉を模索している今日この頃♪

沖縄であれば電車の時間に左右されることなくコンサートを続けることが出来るのだが、こと東京などは特に終電に合わせてすべてのイヴェントが組まれている。

今回もなるべく早めに終わろうと思ったのだが、やっぱり11:20分という時間になってしまった。終電に間に合わないという人がライブ途中で帰らなければならないということになってしまったのだ。

会社からメシも喰わずに急いで会場へ駆けつけ、ペコペコの腹を抱えながら、終わってからも仲間と、飲み食いしながら談笑する時間もない。これはオレのコンサートに限って言っているのではないということを理解してもらうとして、一度JRの友人に文句を言ったことがある。深夜、一時間に一本でもいいから電車を出してよってね。

そしたら、「いまでさえ終電から始発まで3時間しかないんだよ、その間にメインテナンスなどすべてこなさなきゃならないっ! もし事故とか何かあったら全ての責任をウチがとらなきゃいけないんだよっ!」という言葉を返されてしまった。じゃ、24時間動いているニューヨークの地下鉄はどうなんだよ!と言い返したかったのだが、かわいそうだからやめにした。

 だからと言っては、また嘘つき呼ばわりされてしまうので、断言は避けるが、今年は23、24日と2Daysってのもいいよなと、オレが勝手に思ってる。だって今は“429Street”じゃないもんね。

(2005年2月)

近況・その13(未掲載) (2005年1月)

2017年11月17日
近況

やっと念願の“Ray”を観に行くことが出来た。

あのRay Charlesの映画ということで少し興奮気味に渋谷の映画館に足を運んだのだ。いろいろなところで絶賛されており、ここで敢えてオレが語ることはよしにしよう。とにかく三時間という時間が一瞬で過ぎてしまったような素晴らしく感動的なひとときであった。

その少し前、試写会に二回も行ってしまったのが“LIGHTNING IN A BOTTLE”という2003年にNYのラジオミュージックシティーホールで行われたブルース生誕100年を記念するイヴェントをマーティン・スコセッシ監督が映像化した映画である。こちらもまた映画ということを忘れてしまうような圧倒的な歴史の存在感に打ちのめされてしまった。

 思えば少年時代に聴いたエルヴィス、中学生の頃出会ったビートルズ&ストーンズ、そしてアニマルズ、スペンサー・デイヴィス・グループ、ライチャウス・ブラザース等々、オレはどんどんと黒っぽいほうへハマっていった。

 モータウン&アトランティック系のアーティストにも、かなり夢中になっていった。

 そして17.8才の頃には、ビートルズとかストーンズも憧れて育ったようにやはり当然のごとく行き着く先はブルースであり、マディー・ウォータースやジョン・リー・フッカーなどを聴くようになった。

 しかし、そこではたと立ち止まってしまったのである。

 当時の幼い思考で考えたことをそのまま記するので、そのつもりで字を追って欲しいのだが、やはり苦労とかを経験しないとブルースを唄うことは出来ないんじゃないだろうかと思ってしまったのである。

 そこで当時、オレのそばにいた良き友人(♀)でもあり、有名なR&Bシンガーでもあるサミーにそのことをそのまま話すと、彼女は

「する必要のない苦労はしなくていいんじゃない?」と返してくれた。

 アメリカにおける黒人の立場とか、その歴史とかをろくに知らない若僧がブルースなんて気易く語るんじゃねぇと、いまだったらその頃のオレをぶっ飛ばしたいくらいだが、その若僧なりに真剣に悩んでいたのである。

 そしてオレなりに導き出した結論は、

「そう、血が違う」ということであった。

 どんなにうまく真似が出来ても、それがうまければうまいほど、違和感を覚えるのは何故だろう・・・・

 限りなく近くへ行けたとしても、決して追い越すことは出来ない、いや近づくことさえ叶わないのであろうと・・・

 その結論に達するまでの経緯は省くとして、結果、オレは18才の時にソウルミュージックを追うことはやめてしまった。

 以降、ダサくてもヘタでもいいから、自分なりのオリジナルを・・と19才の時に頭脳警察を作ることになるのだが、聴いてのとおり頭脳警察には黒っぽい香りなど、どこにもない。

 そう、もうすでに頭から切り離されており、自分の趣味として大事に大事にしまっておいてあるからだった。

 アニマルズ、スペンサー・デイヴィス・グループ、ライチャウス・ブラザース、スモール・フェイセスなどなど、これらのグループの音楽は総称して“ブルーアイドソウル”と呼ばれていた。

 黒人音楽、中でもリズム&ブルースに取り憑かれた白人達が憧れて黒っぽい(ソウルっぽい)音、歌唱法などを競って発表していた時代、それらのものを“青い目のソウルミュージック”ということで表現されたものだが、言い得て妙である。

 映画“LIGHTNING IN A BOTTLE”の中でジョン・リー・フッカーは言っている

「音や歌はみんな真似できる、しかし言葉と言葉の間に実体験があるんだ。そしてそれがブルースだ」と・・・ 

 白人に悟られないように歌詞をはっきり歌わないようになったというブルースの歴史。

 B・B・キングはこうも言う

「ブルースはジャズの叔父さん、ロックは子供だ」と。

 日本語をはっきりと発音しない(出来ない)この国の子供達はこれを聞いてどう思うだろう。

(2005年1月)

近況・その12 (2005年1月)

2017年11月17日
近況

“PANTAを仙台に呼ぶ会”の皆様の尽力で、四年目になる恒例の仙台でのライブを、昨年11月に敢行しました。

 毎回、事前に何かトラブルが起きるのが常なのだが、今回は目立った障害もなく、思い切り出来たというのが正直なところ。

 今回はアストン・マーチンV−8で東北道を走って行きたかったのだが、琢己と二人だけでアコースティックでやるということもあり、楽器車に相乗りということになり、それだけがちょっと残念♪

 念入りなリハーサルをして行ったつもりではあるのだが、“ネフードの風”と名付けられたこのライブのタイトルソングでもある、アルバム「マラッカ」に収められている“ネフードの風”を筆頭に難曲が目白押しであった。

 いつも演りたいという気持ちだけが先走って後先のことを考えないので、こういう風に自分の首を絞める結果になってしまうのだが、そこはそれ、自分にプレッシャーがかかればかかるほど緊張感も増し、集中力も高まるので必然的に密度の濃いライブになるというものである。

 バンドではないけれど、久しぶりに“朝を呼ぶ男”なども演ってみたのだが、意外だったのは劇団不連続線シリーズの“見知らぬ友への反鎮魂歌”であった。

 リハーサルも含め、何気なく唄ってはいたのだが、いざ本番で歌ってみたら、この歌詞がグイグイと身体の中に突き刺さってくるのだ。

 頭の中では、有名な「○○事件」のことが思い浮かび、唄っていて、まるで自分が現場にいるかのような、そんな気持ちになってしまい、何とも言えない悔しさと悲しみとやるせなさ、それを乗り越え、かつまた熱いため息の入り交じったような不条理な感情に包まれ、歌い終わった後も、悲壮感なのか悲泣心なのか、どう表現していいかわからなくて、思わず「いやぁ、この詞は来てしまいますねぇ・・・」と言葉に出すのがやっとであった。

“落ち葉の囁き”は、本当は役者さんの台詞のところを自分で台詞を吐き、かつての芝居での本当の原型として再現出来たことが、すごく嬉しかった。

 本編最後の曲として、久しく演ることのなかった“あばよ東京”を唄おうと思った。

 これはオレにとっても、一緒に演るミュージシャンにとっても特別な曲である。

 頭脳警察の曲なのではあるが、音楽的にどうこうというわけでは決してなく、生半可な気持ちじゃやれねぇぞっという気持ちが、演る人間の中に自然と生まれて来てしまう、そういう念力(ねんりきではなく、ねんりょく)をこの曲は要求してくるのである。

 故に、この曲を演るときは、他の曲とは別格として扱わなければならない。

 絶対にライブの後半などの気持ちの高ぶりの流れに乗って安易に流されてはいけない存在なのだ。それまでの流れをいったん自分の中で断ち切り、いわゆる無の境地というものに近いのかもしれないが、頭の中を空にして、ひと呼吸、そしてふた呼吸・・・一瞬の間ではあるが、この曲に立ち向かう為の心の準備が必要とされる。

 そして、これはもう“気”というしかないのかもしれないが、その“気”が静寂の沸点に達したときイントロのフレーズにピックが振り下ろされるのである。

 繊細に、そして大胆にその世界に入り込んでいき、静観から達観へ、熱い絶望、そして凍りついた火のように唄が閉じられていく・・

 詩が終わり、言葉さえももどかしく、愚かしく感じてしまうような、希望とも哀しみともつかないCodaの世界へとギターのソロが美しくも破壊的に引き継がれていき、それは自我さえも大気と同化してしまうかのように終わりの見えないエンディングへと向かって突き進んで行く。

 そして、全身火だるまになりながら、“気”が昇華したときにこの曲はどこからともなく聴こえてくる誕生を示唆するような温かい囁きに導かれ、また終焉の静寂へと舞い降りていくのである。だからこの曲は最後なり、アンコールでしか出来ないのだ。

 東京でのリハーサル中、何故か急に’88年に「P.I.S.S」で松原みきさんとデュエットした“One Night Lover”をやりたくなり急遽メニューに付け加えた。あまりこういうタイプの曲は喜ばれないかなと思いながらも、マッたまにはいいじゃんという気持ちでアンコールで演ってみた。

 キーを一音低くしようかという案も出ていたのだが、いや、レコーディング時に松原みきと唄ったのと同じキーでやろうということに落ち着き、結果、抑えたところと張った部分の対比が明確に出て大正解であった。

 そして、その松原みきの死を知ったのは、仙台のライブの一ヶ月後であった。※

 笹塚に住んでいて、遊びに来てと言われていて、一度もお邪魔出来ずにいたのだが、気にはなっていて、今更ながらに、せめて、もう一度だけでも、彼女と唄ってみたかった・・・

合掌

※2004年11月7日永眠 享年44歳

追加:最初はファンクラブが仕切ってくれたバースデイライブから始まったこの琢己とのギター二本のユニットなのだが、仙台でも再現し、なかなかいいじゃないかという確認が出来たのも、大きな収穫である。

 そんなわけで、このスタイルでちょっと回ってみようよということになり、今年の三月には全国数カ所でやってみたいと思っている。

“漣(さざなみ)・・Pf ロケット・マツ、Vl 阿部美緒のトリオ”、“陽炎(かげろう)・・ソロからHALまですべてやれるフル編成のバンド”、“朧(おぼろ)・・G PANTA&Bass、Drsのトリオ”すべてオレが勝手に仮の名前(駆逐艦名)をつけているだけだが、まだ“漣”しか形に出来てはいない。

 このシリーズの中で琢己とのユニットを名付けるとすれば、さながらPT(魚雷艇の呼称)になるのであろうか・・綾波なんて名前にしちゃうと、どこかのエヴァンジェリストたちを喜ばせてしまうので、それは避けるとして、差し当たってPT−109(かのジョン・F・ケネディが若きし頃、太平洋戦争中に指揮していた艇で、日本の駆逐艦”天霧”に激突され艇を真っ二つにされた)とかでもなく、PT−05とかって名前にしようかな・・?

 魚雷艇(水雷艇)は小っちゃいけれど、でっかい大編成のロックバンドを撃沈する破壊力を持ってるぞってことで・・・・

 頭脳警察のニューアルバムも延び延びになってるし、ソロのニューアルバムも出したいし、鈴木慶一とのPKOもやらねば“氷川丸”という曲も日の目を見せてやれない。

 前述のように「P.I.S.S」(小便)というアルバムを以前出したので、次は「KAKA」(クソ)というアルバムで、いままでの未発表曲を宿便みたいに全部出してしまおうというのも20年くらいなおざりになっている。

 さあて、今年は忙しそうだ♪

(2005年1月)

近況・その11 (2004年12月)

2017年11月17日
近況

先日、ニッポン放送の“テリー伊藤の乗ってけラジオ”に電話出演した。

 コーナーのタイトルは、−あの名曲の舞台を探せ−『のってけ歌謡Gメン』というものだったのだが、石川セリの“ムーンライトサーファー”に関しての質問で、最初に来たFAX&メールに対して、オレの答えはこうだった。

Q1 歌詞の中の海はどこの海ですか?/そして季節は?

P: 聴いているリスナーの方が思い描いた海です。季節もリスナーの方が感じた季節です。ちなみに個人的には、海というと、つい大好きな葉山の長者が崎を思い描いてしまいますが・・・(笑)

Q2 サーファーの彼(夫?)は、どんな男性なのですか?/地元のサーファーなのですか?

P: リスナーの想った男性です

Q3 彼女(妻?)はどんな女性ですか?/彼女も地元の人ですか?

P: これもリスナー自身かもしれないし、想像したものが正解です。

Q4 “星を探すの、あなたの星を”と歌詞にありますが、彼氏(夫?)は、海でサーフィンをしていて亡くなられたのですか?

P: それぞれの人に出会いと別れが待ち受けています。それを作者が提示するのはヤボというものでしょう。

Q5 なぜサーファーをテーマに曲を作ろうと思われたのですか?

P: 日本の波は小さいですよね。世界には想像を絶する大波が荒れ狂うところもあります。津波から大波小波、漣(さざなみ)にいたるまで、波にもいろいろあります。

   不器用に、時には押し流されもしますし、大波に器用に乗る奴もいれば、波打ち際で足元をすくわれるものもいます。

小さな波を命がけで乗り切ろうとしている人もいれば、大きな波の上で、笑顔で手を振る人もいる。

   それをとかく人は運命と位置づける人もいれば、世渡り上手と揶揄したりするものですよね。すでにトレンドになっていたのか、この曲の後に目立つようになったのかはわかりませんが、原宿あたりでも、車の屋根のキャリアーにサーフボードをビス止めして(笑)、やりもしないのに、自分はサーファーだとカッコつける通称“陸(おか)サーファー”なるものが出現していました。

   それほどサーファーというのが、カッコいい存在として認知されてきていたのでしょう。

当時、オレは頭脳警察を解散して、ソロアルバムのレコーディング中でした。

   その時に、石川セリさんの曲の依頼を受け、セリと言えば、当然、オレの頭の中に、あの名曲“八月の濡れた砂”が浮かんだのは無理ないことでしょう。

   歌詞の中の“打ち上げられたヨットのように〜♪”というところに、打ち上げらるんだから、大型クルーザーではないし、二人乗りのディンギーだったらキールが船底についているわけだから打ち上げられないし、オレだったら“打ち上げられたボートのように〜♪”ってするけどなぁ〜(笑)などと思いながら、やっぱり石川セリ→海というイメージが根強くありました。

レコーディングが終わり、サザンオールスターズを発掘&育て上げた当時のオレのディレクターと一緒に帰るときに、「いま石川セリに“ムーンライトサーファー”というイメージタイトルで曲を書こうと思ってる」と会話した覚えがあります。

   後に、サザンの桑田クンが監督した映画“稲村ジェーン”に伊武雅刀さん、草刈正雄さんとともに三人の伝説のサーファーとして出演したのですが、その撮影の時に、桑田クンが「PANTAさん、ちょっと来て来てっ」というので、現場に行ってみると、大きなサーフボードが立てかけてありました。

その上のほうに黄色く大きな文字で“PANTA”と書かれていたので、

「おいおい、これはまずいんじゃないのかい?」と、言ったところ、

「いや、この上のところは画面から切れるので、入らないから大丈夫!」と言っていたのだが、いざ出来上がってみると、思い切り画面に大写しになっていたので、ひっくり返ってしまった記憶があります。

   “ムーンライトサーファー”の”黄色いイニシャル〜サーフボード♪”という箇所を、桑田クンの一流の茶目っ気がなした洒落ということなんでしょう。

   

Q6 中村さん自身、サーフィンをなさるのですか?(注:この曲のクレジットは中村治雄としてあるので)

P: 中村さんと言われるのには慣れてないので、PANTAで結構ですが、ネットサーフィンくらいしかやりません(笑)。

   前述した“稲村ジェーン”に桑田クンから誘われたとき、「PANTAさん、サーフィン出来る?」と、聞かれたので、

「バカヤロ、所沢の生まれだい、スケボーだって乗れネェやいっ!ところでサーフィンのシーンあるの?」

「いや、ない」と答えられたので、出演OKとなった次第です(笑)

Q7 レコーディング等で、印象的なエピソードがありましたら教えてください。

P: “Surfer in the moonlight(moonlight)moonlight”のカッコの部分はコーラスでやるつもりだったのですが、ちょっと現場を離れているときに、セリが自分で歌ってしまったので、これをカラオケで、ひとりで全部、唄おうと思う人は窒息してしまうので、注意してください、当方は責任を負いかねます(笑)

と、ちょっとイヤミに取られても致し方ないような答え方をしてしまったのですが、このメールの後で、こう付け加えました。

前半の部分の補足説明を少しさせてください。例えば、ある種の映画のように、観ている観客が同じ思いで楽しんで帰るというのと違って、音楽というのは100人聴いている人がいれば、100通りの絵がその人達の頭の中に描き出されます。

 それはその人の生まれ育った環境なり、経験なり、聞いている時間、場所、状況、そして抱えている問題なり悩みなりによって、その絵は、その人なりに全然違ってきます。

 ですから、いろいろとインタビューなどされて、この曲はどういう気持ちで作ったのですか?とか、この曲は何を言おうとしているのですか?などという質問には、リスナーのイメージを狭めてしまうことになってしまって、逆サービスとなってしまうので、語彙の説明はいくらでもしますが、格好つけてるわけでなく、聴いたあなたが思ったものが正解です、と答えるようにしています。

 曲は歌にして、マイクからスピーカーを通してリスナーの耳に届いたときには、すでにその曲は歌手のものではなく、ましてや作り手のものでもなく、その時点でリスナーのものになってしまっているからです。

 ですから、こういうメッセージを込めてこの曲を書きましたなどというアーティスト?の答えなどを聞いていると、バカじゃねぇのと思ってしまいます。

 そんなの歌を聴いてりゃわかるでしょ、説明しなきゃわかってもらえないんだったら、そんな曲作るなよと思ってしまうのが正直なところです。

この歌を額面通り受け取って、夏の定番と聴く人もいるでしょうし、ふたりの出会いから紆余曲折の恋の波、そしてやっとふたりで恋の波に乗れたのに、思ってもいなかった別れ・・というふたりの生き方の断片と取る人もいるでしょう。

 決してからかって答えているわけではありませんので、その点、ご理解いただいて、ご容赦願います。

・・・・というメールを返信しました。

この番組のこのコーナーは、前述したようにその名曲の舞台を捜索する『のってけ歌謡Gメン』というコーナーで、普通は、その質問の答えを、読み上げるというものらしいのです。決してスタッフを困らせる意図なんぞなかったのですが、オレがこんなカタい答えを返してしまったので、結局、電話で出演して自分で話してください、ということになってしまったわけです。

 テリー伊藤さんとは、いつかお話したいと思っていたので、ほんの僅かの間でしたけれども会話できて嬉しかったです。

 加えて、いま台風が近づいていますよね・・それは戦後、60年という大きな台風かもしれません・・・ということも付け足すことも出来ました。

 せっかく“ムーンライトサーファー”を取り上げてくれた昼間の娯楽番組に、こんなお堅い屁理屈を並べてしまって、ニッポン放送のスタッフには本当に世話を焼かせてしまったと思ってます。

 だからオレって使いづらいよなぁ・・・♪(苦笑)

(2004年12月)

近況・その10 (2004年10月)

2017年11月17日
近況

最近は、「アンダーカヴァー」という、裏原のカリスマと言われているブランドばかりを着ている。パンクスを原点にしているのだが、数年前の東京コレクションで発表された作品を見たときには、びっくりしてしまったことを思い出す。

これもかなり前の話だが、当時、話題になっていたアフガニスタンのタリバンを批判し、昔のアフガンの女性はもっと自由にお洒落を楽しんでいた、というメッセージを込めて、表紙の子供を抱えた母と子供の顔を削って消した写真を表紙にした、フランスのVOGUE誌にも驚いた。しかし、あろうことかアンダーカヴァーは何とモデルにブルカを連想させる白い覆いを顔に被らせ、カラシニコフを連想させる傘を持ち、弾帯に見せかけた硝子のアクセサリーを肩から斜めにかけさせて、ショーに臨んだのである。

 ファッション誌がこれを見逃すわけがなく、多くの雑誌が、東京コレクションの筆頭の話題に取り上げていた。

現在は東京コレクションを離れ、2002年からパリコレに進出しているのだが、昨年オレがイラクへ行くために、アムステルダムから飛行機に乗ってヨーロッパ上空をヨルダンに向けて飛んでいるときに、彼らは、オレの乗っている飛行機の下のパリで、コレクションの準備に勤しんでいたのである。思わず、オレの頭に「翼よ、あれがパリの灯だ」という言葉がよぎったことは間違いない。パリコレと、アンマン経由で砂漠を横切り、バクダッドへ向かおうとしているオレとの落差は一体何なんだと、頭が痛くなってしまった。

 バクダッドへ着いてからも、今度はバース党(いまやすでに旧政権と化しているので残党が地下に潜っているのであろうが)主催のファッションショーを見させられることになるとは、これまた面白すぎる出来事であった。詳しくは“PANTAとレイニンの反戦放浪記”(彩流社・刊)という本に書いてあるので、興味のある方は読んでみてください。

話は変わりますが、ポストペットというメーラーをご存じない方は少ないでしょう。

 あまりにも有名な、ペットがメールを運んでくれるというメールソフトで、一時期はその新製品の発売のカウントダウンが行われ、大行列が出来たくらい大変なものだったのです。

 いまもオレはポストペットを使い、テスタロッサというカメ(亀)とアバンチュール・ランボー(アルチュールではない)というメカを飼っているのだが、そのポストペットを作っているペットワークスの連中とは、ひとかたならぬつき合いをさせてもらっている。

 Ver.2では筋肉少女帯の内田とともにマッスルポリス(筋肉警察)の部屋というものをポストペットの部屋のひとつに作った。

 安田講堂らしきものが窓から見え、ゲバラらしきポスター、火炎瓶のような空き瓶などが何気なく置かれたどこかの部室のような部屋には、ゲバ棒らしきものや左用のストラトキャスターなども置かれ、マニアには喜んでもらえたと思う洒落た部屋であった。

 いまポストペットはVer.3になり、それを使わせてもらっているのだが、キャラクターのモモをデザインしている真鍋さんは、ペットワークス(ポストペットのチーム)内にモモコプロジェクトを作り、精力的にモモコシリーズで活動していた。イヴェントでは一緒に桃信桃子の6分の一人形を作ったり、それはそれは好きが高じてという言葉ほど、彼女に当てはまるものはない。

 そのモモコシリーズは現在、セキグチという玩具メーカーから全国発売されるようになり、彼女は新たにミニモモコというシリーズにアプローチしている。その発表イヴェントでも、何故かヤスキヨ、そして引田天功に並んで、オレを模したミニモモコが並んでいたのである♪

ペットワークスの主役である八谷くんは、以前、“BACK TO THE FUTURE3”に出てきた、エアボードを作ろうとジェットエンジンを使って試行錯誤していたのだが、今度は“風の谷のナウシカ”に出てきた、ナウシカの駆るメーヴェという一人乗りのグライダー?に挑戦している。二分の一モデルではすでに飛行実験に成功しているのだが、一分の一になるとコンピューターによる姿勢制御などをかなり細かく設定する必要があるらしく、それにエンジンはフランスのミサイル標的用のものを二基購入しようとしているのだ。

 しかもこれは防衛庁も欲しがっているものらしく、防衛庁より先に買ってしまってはマズくないかい?と助言している今日この頃である。(この二分の一のメーヴェは、つい最近、六本木ヒルズで行われたアートイヴェントで展示されていたので、目にした方もいるのではないでしょうか)

そんないろんなジャンルのつき合いのあるオレですが、これまた先日、メディコムトーイというフィギュアーの業界では超有名なメーカーにお邪魔させてもらい、3Dの顔写真を撮られて来ました。若いときならいざ知らず、もう人生を折り返しているオレの顔など撮ったって仕方ないと思ってしまうのだが、これもアメリカ向けのメディコムの雑誌には載ったらしい。いずれガンダムや、松田優作などと並んで、オレのフィギュアーがショーウインドーに並ぶのもそう遠い日でもなさそうな気がする。

(2004年10月)

近況・その9 (2004年9月)

2017年11月17日
近況

久しぶりにミスターバイク誌の取材を受けた。

 企画内容は”これで人生が変わった”というタイトルで、その人生を変えさせられた当時の現場に行き、現在の自分の写真を撮り、語るというものである。

 オレは中学生の頃にはすでにバイクを乗り回し(もちろん無免許・・時効?)いまの西武ドーム近辺でモトクロスの練習に勤しんでいたのであった。

 オフロードを走りまくるマシンを、いまはモトクロッサーという言い方が一般的だが、当時はスクランブル、そしてそのマシンをスクランブラーと言ったものである。

 そして、そのバイクに関わる窃盗事件の冤罪を背負わされ、オレはやむなく退学させられるハメとなったわけだが、これはいろんなところで話しているので内容は省く。とにかく、この冤罪に因って、オレは立ちはだかった人生の岐路というものを初めて思い知らされることとなったわけで、このターニングポイントがなかったら、まず頭脳警察というものも、この世に存在していなかったと断言してもよい。

中学生だったオレが、徹夜でエンジンをバラし、改造しまくった50ccの自称スクランブラー(?)で、いつもの高い崖が待ち受ける、好き者達の集まる場所に出かけていく。

 そこは後に有名になるレーサー達も集まってくるような有名な場所であったが、途中、ナンバープレートもなく、保安部品など一切取り外されて、ゼッケンプレート10番をつけて公道を走っているバイクを白バイが見逃すはずもなく、即、サイレンを鳴らして追いかけっこが始まり、オレが畑の中から、林の中まで逃げまくれば、相手の白バイも果敢に追いかけて来る。本当におおらかな時代であったと思う。

そんな思い出の中の一瞬の煌めきを過ごさせてもらった西武ドーム近くで撮影は始まった。気温が連日40度弱の厳しさ、記録的な猛暑となっているこの真夏にである。

 あいにく去年、埃を被ったままだったDUCATI PANTAHやらのバイク達は友人達のところへ去って行ってしまい、残念ながら、手元には一台もないという状況。

 丁度、そろそろ乗りたいかなと思っていた矢先に、通じるものがあったのであろうか、ミスターバイクから、この話が来たのである。

 前述したように、バイクは一台もないので、仕方なく、アストンマーチンV8で現場へ向かった。編集部の希望で革ジャンを着用してくれという・・・

 そのリクエストを聞いただけで、オレは熱中症で倒れそうになってしまったが、カッコだけでもいいから革ジャンは用意して欲しいとせがまれ、では、ということで肩からかけたり手で持ったりして、さらに小さい(小学生?)頃によく遊んでいた狭山湖の堤防の上で撮影した。

 オレの口癖で、「仕事ってのは暑いか寒いかどっちかだ」ってのがある。その実、ライブとかレコーディングとか、取材なんてのを仕事だと思ったことは一度もないくせにだ。

ミスターバイクってのは、昔からおちゃらけた雑誌である。高速道路二人乗り禁止と言われれば、マネキンをタンデムシートに乗せ、料金所で一泡吹かせたり、二輪車の都内走行規制時間条例が成立すれば、背中にでっかい時計を背負って警察を困らせたりする茶目っ気たっぷりの雑誌である。

 その雑誌のキャラに合わせて、ミスターバイクなら、こんなカッコがいいんだろ?と、ちょっとサタデイナイトフィーバーのようなポーズをとってみたりしたが、本誌が出来上がってみると、オレが母上とツーショットで三輪車にまたがっている写真が使われているではないか! オレはこんな写真を使うのは許可してねぇぞっ!→編集部!(笑)

 しかし、とにもかくにも撮影は無事終了し、撮影されてるオレよりカメラマンの方が、あの暑さによくへばらなかったものだと感心してしまう。

 スタッフもなかなか優秀な奴だし、これならこれからのミスターバイクも安心出来る。終わってから、近くの豆腐料理で有名な料亭で、クーラーも無しの離れの座敷で、日本庭園と林に包まれ、本来の涼しさを満喫しながら、いろいろと当時の話をし、終わった頃には、すでに狭山湖に夕陽が差そうかという時間であった。

 この狭山湖に落ちる夕陽は絶品である。よくアマチュアカメラマンたちが、集まっているが、眺めているだけでも何とも言えない郷愁、そして遁世の気持ちに近いものを感じてしまう。カメラマンが撮りたがるのも無理はない。それはそれは素晴らしすぎるからだ。

 そして、その湖の下には、オレの曾婆ちゃんが住んでいた村が沈んでいるのである。

(2004年9月)

近況・その8 (2004年6月)

2017年11月17日
近況

 西荻窪に「アケタの店」という、小さいけれども新宿ピットインと並ぶジャズの老舗のライブウスがある。

 今年、そのアケタの30周年ということで、また、ジャズを唄うことになった。

「また」というのは、以前、義兄の故・板谷博がギルティ・フィジックというバンドを率いて、アルバムを出した折り、キャンペーンライブに付き合えということで、客寄せパンダ?ならぬ客寄せPANTAということで、初めてジャズをやらされることになった経緯があってのことだ。

 義兄はトロンボーン奏者であり、初めて彼のライブに行ったのは、他ならぬ新宿ピットイン、山下洋輔とセッションということで、それはそれは刺激的な出来事だった。

 彼は、山下洋輔トリオでなく、自分が加わって山下洋輔カルテットになるのが夢だと語っていたのを思い出す。

 その後、生活向上委員会というグループでドクトル梅津氏らと活動を続け、自分がリーダーとしての、前述したギルティ・フィジックというグループでもアルバムを出し、その発売記念キャンペーンとして、ロックバカ一代(んっ?)のオレがゲストで出てジャズを唄えという無謀な指令を出されたわけだ。

 彼の作曲によるインストルメンタルの“Petit Waltz”という曲にオレが仏語で詞をつけ“Petit Cocotte(可愛い不良少女)”とタイトルを付けたり、チャーリー・ミンガスを聴かされたり、レイ・チャールズからホーギー・カーマイケルまで、数々の珠玉の名曲の数々を候補にあげられ、いわゆるフリージャズを好む彼らしくもなく、かなり王道なスタンダードジャズのナンバーをオレに望んできた。

 しかし何と言ってもジャズとロックではルールが異なり、異種格闘技戦と言っても過言ではなく、かなりのプレッシャーを強いられたことは確かだ。

 バッキングが、とにかくルートの音を重ねてくるロックとは違って、ジャズの場合は歌のメロディが入って初めてバッキングとのアンサンブルが成立するので、歌は自由に動けるかわりに、しっかりと構成音を捕らえてトレースしていかないと、音楽としてまるで成立しなくなってしまう。

 第一回目のアケタでのライブは自分的には惨憺たる結果に終わった。

“Goodby Porkpie Hat”では、萎縮しているせいか、思ったより声も出ず、オレが自分で詞を乗せた“Petit Cocotte”にいたっては、オクターブ三度下で歌い始めてしまい、ソロを回した後、やっと本来のメロディに戻れたという始末。

 リッキー・リー・ジョーンズの“Dat Dere”は、ふざけて“だってRare”などというタイトルにして、日本語詞をつけて歌ったのだが、あまりのメロディの難しさに、まったくお話にならないほど悲惨な出来であった。

 ロックの場合、ある意味、様式美であるので、何回もリハーサルを重ね、曲の完成度を高めてライブに望むのであるが、ジャズの場合は、その刹那のインプロビゼーション(即興性)を重要視することもあり、リハーサルは一切なしで、サウンドチェックのみで本番に望むわけだ。オレとしては不慣れなというより、むしろ初体験ともいう試練なのに、リハーサルもやらせてもらえない。

 バンドとの、音合わせならぬ歌合わせを許されるかぎりやりたかったのだが、それも叶わず、初っぱなからジャズのルールに則っての本番突入ということになってしまった。

 主メロの歌が終わると、各楽器のソロの回しになり、これまたロックとは違い、ソロは譜面上でダ・カーポで頭に戻り、ソロの回しが終わると、譜面の小節通りに歌は入らなければならない。

 よってちゃんと小節数を頭に入れておかないとソロが終わっても歌は入るタイミングを失ってしまい、全員が路頭に迷うことになってしまうのだ。これにもかなり翻弄されたものである。

 義兄が、ビッグバンドを組んでやるから、唄ってみるといい、忘れられない快感になるぞと言っていたことが、昨日のことのように思い出される。

 義兄が他界して、数日後、車を運転中にオレの友人であり、DJであるケイ・グラントが故板谷博を偲んでと、FM・NACK5で、彼がトロンボーンで唄った“Over The Rainbow”を流してきた。これには涙腺をやられてしまった。

 あとで「泣かせるんじゃねぇ」と、電話でケイに文句を言ったことも、いまとなってはいい思い出だ。

 そんな経緯があって、ギルティ・フィジックのメンバーでもあったサックスの松風鑛一さんのユニットでアケタの30周年に臨むことになった。選曲にはかなり悩んだのだが、兄貴がオレに望んでいた王道のスタンダードジャズをやろうと決めてしまったのである。

 レイ・チャールズの♪スススサ〜ムタ〜イム・・という出だしを聴けば、ゴメンなさいになってしまうし、ナット・キング・コールを聴けば身体が溶けてしまいそう、サム・クックを聴けば身体がしびれまくりだし、トニー・ベネットを聞けば、脳みそが空になってしまいそう・・・・

 以前から、60才になる頃にはサッチモの“What a Wonderful World”を歌えるような{価値}のある人間になっていたいと言ってはいたのだが、それに先駆けて、60才を待たずに、前から唄ってみたかったイントロバース付きで、“Stardust”&“思い出のサンフランシスコ”

に挑戦してみた。

“波紋の上の球体”というオレのアコスティックアルバムに収録している“うらむらく”

という曲もジャージーにやってみた。

 オレが声で参加したファミコン時代からの有名なゲームであるプレステ2用に作られた“探偵神宮寺三郎”の9作目にあたる“Kind of Blue”(サウンドトラックも発売している)の主題歌も唄ってみた。

 そうそうたるメンツをバックにライブは展開していったのだが、以前ほどの緊張はなく、割合いリラックスした状態で出来たように思う。

 かなり学芸会レベルの出来であったのであろうが、オレとしてはあんなもんでしょうとの諦めにも似た吹っ切れた満足感が残っている。

 来てくれていた全日空ホテルに勤める従兄弟が、ディナーショーを組んじゃうぞと言っていたので、「望むところだ、ギャラは高いぞ」と応えておいた。

 ナット・キング・コールの“Mona-Risa”をやったので、てっきり“Too Young”もやるかと思ってたと言ってくれた元安全バンドのドラムの純平は、自分も叩きたそうにライブ中は腕をさすりまくっていたらしく、浦和R&Rセンターの高澤くんにいたっては、“Too Young”だけでなく、今度は“酒とバラの日々”も唄ってくれとの熱いリクエスト。

 いっそのこと、純平がいま定期的に自分のジャズバンドで大宮のライブハウスでやっているらしいイベントに遊びに行って歌ってしまおうかとも思っている今日この頃。

 それにしてもオレは酒が飲めないので“Days Wine and Roses”にはならず、酒と女ではなく“Days Wife and Roses”になってしまうのであろうが・・・・(笑)

(2004年6月)

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