11月26日土曜日、パンタさん仕事場大掃除ン回目、ドキュメンタリー撮影班的に言ってみれば「PANTA邸ガサ入れ」とでも称すべきでしょうか(私は撮影班ではありませんが)、現にこの回はそれまでに比べて一層マネージャーのガサ入れ的尋問にタジタジするパンタさんの姿が見られました。誤解なきように記しておくと、そろそろ大体の荷物を動かし終えて細かな分別の段階に入っており、何か発掘された時に特に疚しいわけでもないものを尋問調に伺い立てパンタさんがタジタジしてあげるというジョークが板に付いてきた、といったところが正確かもしれません。もちろん疚しいビデオなんかが出て来ようものなら楽しそうなのでそれはフツーに待望していたのですが、この日出て来たのは『滅び得た者の伝説─その一─ ヤマト・タケル』の台本でした。画像はコピーを取らせてもらったものです。
『ヤマト・タケル』は頭脳警察が初めて関わった芝居であり、三原元氏が主宰する「滅び得たものの伝説上演委員会」の最初の公演として1971年11月に池袋グリーンシアターで上演されました。きっかけは三原氏が三里塚で頭脳警察を見た事、だそうですが、この辺りは『music for 不連続線』のブックレットでギャラの話までアケスケに語られているので、詳しくは省略します。とは言え三原氏のパートは4ページに亘る口頭インタビューのみ、不連続線の方は菅孝行氏の『いえろうあんちごうね』が古本屋で入手可能なのに対し、滅び得たものの伝説上演委員会はここ数カ月amazonを探せどもヤフオクを漁れども神保町を練り歩けども手がかりが見つからず、大変謎に包まれていたのでした。ただし、インタビューで三原氏の「扇田昭彦さんあたりに聞いたら丁寧に答えてくださると思うよ」という発言があり、扇田氏は2015年に亡くなられていましたが、まだ関連しそうな著書を確認していないので、もしかすると言及があるかもしれません。ともかく、これは流石に古本屋にないでしょうといった風の、二つ穴にスズランで留められたざっくりした佇まいの『ヤマト・タケル』が、ガサ入れ最終段階にして救い出されました。Facebook不精の私がこうして初めて記事を書いているのも、この発掘の事実を黙っている事による世界への不利益に責任を取りたくないという怠けた使命感に他なりません。
この台本、ページの抜けもある上に、おそらくこれは二幕の途中で切れていますし、一幕と二幕で明らかに筆跡が違う点も気になります。また『music for 不連続線』ブックレットの方も、インタビュー冒頭で三原氏が「話半分、ウソが多い」と断っている事からして出来事の前後関係などを信用して良いものか悩ましく、例えば『ヤマトタケル』(ブックレット表記では中黒ナシ)に頭脳警察が協力するにあたって作られたのは「最終指令自爆せよ!」「オリオン頌歌」だそうですが、だとすると72年5月のテルアビブより早く71年11月上演のこの芝居でオリオンの三つ星を取り上げている事になります(もしかすると今回見つかった『滅び得た者の伝説─その一─ ヤマト・タケル』の後に、その二などがあるのかもしれません。三原氏は74年頃に芝居を辞めたそうなので、あるとしたらその間の期間かと思います)。なお台本では、曲が入ったと思しき箇所は「バンド・スペースの照明F.I.」「ロック入る」などとしか書かれていない為、何の曲が演奏されたのかは判断できません。内容的にタケルが如何に自爆したかの物語であるので、「最終指令自爆せよ!」が使われた事は確実でしょう。何れにせよ主人公達が新左翼の言葉で話すのみならず、劇中で71年の10.21のフィルムが無音で流される場面もあり、生もの性の極めて高い芝居であった事が窺えます。「民青」を罵倒語として用いる台詞なんかも出て来、頭脳警察の当時の党派性も再確認できます(笑)
台本が切れている為に、肝心のタケルが如何に自爆したか(多分したのでしょう)は分かりませんが、イージー・ライダーさながらGパン姿でオートバイに跨るタケルの放蕩は、後年の「人間もどき」を含む三原氏の作詞から今まで想像していたよりか、幾分案外ドタバタした青春譚でした。オトタチバナがサイボーグとして登場して(サイボーグ・フェミニズムに遥か先駆けて)、変なエネルギーを使って戦闘しているのも笑えます。この芝居がその後の頭脳警察に与えた影響を不躾ながら推測してみれば、古さに依拠する歴史そのものを冒涜する意味合いでタケルが吐き捨てる「腐ったイワシでも食ってりゃいい」は、「歴史から飛びだせ」に通ずるような気もしますし、ガキに徹する事を肯定しようとするタケルの闘いは、73年に「最終指令自爆せよ!」をそのまま芝居に使った菅孝行氏の、不連続線という「成熟の拒絶」の試みに一致したのではないかと思います。しかし不連続線の『最終指令自爆せよ!』における自爆シーンが、冒頭で「地球のはらわたに行きつ」こうとする男が半分脅しの為にスイッチを入れた時限爆弾でウッカリ自分のはらわたをぶち撒けてしまうものである事や、劇中この歌がセクシーなキャスターに「おうた」として紹介され、「自爆シテハナラナイ」というスライドが添えられる事からして、あくまでヒューマニズムの限界突破としての自爆に一瞬の光を見る『ヤマト・タケル』を否定的媒介にした側面もあるかもしれません。ともあれこうして初期頭脳警察を過激にさせた原因のいくらかを占めるかもしれない70年代初頭のテキストに触れ、今どのようにガキであり続けられるか、どのようにそれが隘路ではないと言う事ができるか、を思うばかりです。
藤原有記(頭脳警察アートディレクター)
※本人facebookよりの転載です