中学生の時、オヤジが買ってきたミヤペットという50ccのバイクに乗っていた。
前進2段の2ストロークの変なバイクであったが、いつの間にかレッグシールドは外され、ちょっとしたモトクロッサーもどきになってしまっていた。
その後、自分のバイクが欲しくなり、探していたのだが、ある日、通りがかった農家の軒先に、放置されている?ホンダのスポーツカブがあるのを見つけた。
ちょうど出てきたその家のオバさんに、そのバイクを譲ってもらえませんかと言ったところ、勝手に持っていっていいよと言われてしまった。
しかしただでもらっていくのも気が引けたので、ポケットを探ってみると、なけなしのお金が450円入っており、全額差し出し、じゃこれで譲ってくださいと、オバさんに受け取ってもらった。
家まで押して帰り、何度もキックしたり、いろいろとやってみたのだが、どうしてもエンジンがかからない。いまだったら、まず電装関係、及び燃料系をチェックするところだが、何せメカニズムの何たるかもわかってないズブの素人の中学生が、こうなったらバラすしかないなと、ただ本能のようなものに導かれるまま、エンジンをバラし始めてしまったのだ。
シリンダー回りを外しきって一応のチェックを終えて、何にも異常が見受けられないことを確認すると、バラした時と反対に組んでいけば良いのだという単純な発想で、また元通りに戻したのだが、何故かボルト&ナット類が、随分と余ってしまった。
その時以来、エンジンなどをバラし組み直すと、ネジの類は余るものという定説がオレの頭の中に出来上がってしまった。それを裏付けるわけでもないが、飛行機のエンジンを組み直すと、大量のボルトなどが余ってしまうらしい・・・しかしこれは問題外の恐ろしい話でもある。
当たり前のことだが、組み上げたエンジンは、やはりかかるわけがなかった。
これはエンジンだけでも探して来ようと、解体屋などを回った。
しかし、スポーツカブのエンジンは見つからず、結局、スポーツカブのベースとなっているスーパーカブのエンジンを2000円で買ってきたのだが、450円のバイクが結局、高いものについてしまった事は、その後の経験に・・・・決して生かされることもなかった。
ライトは外され、ゼッケン10番が付けられ、ボディは深紅に塗り替え、ウインカーなども外され、もちろんナンバーなどはハナっからないこのスポーツカブは、気持ちだけモトクロッサー気分を盛り上げるには充分なものがあった。
真っ昼間から公道を避けて走り回り、ときには白バイに追いかけられ畑に逃げ込むというような、のどかな時代ではあった。
工事中の、いまでいう西武球場のあたりに集まっていたモトクロッサーの集団に混じり、崖登りなどを楽しんでいたが、あるアメリカ人の乗る、HONDAのCL72という250ccのスクランブラー(当時はモトクロッサーのことをこう呼んだ)がいともたやすく崖を上っていくのに対抗して、かなりの助走距離をとり、マイマシンで駆け上がって行ったのだが、案の定、途中で息をついてしまい、半分くらいのところから転げ落ちる羽目になってしまったことは、いまでも忘れられない思い出としてある。
アクシデントの思い出は話し出したらキリがないが、ある日、あまりの暑さに裸でモトクロスごっこをして遊んでいたおり転倒し、左腕がまともにヒートしきったシリンダーの上に被さり、ジューッいう音を立てて、皮膚が焦げていくのがわかった。
家へ戻って、おふくろにやけどの手当をしてもらったのだが、いまだに左肘のところにシリンダーのフィンのスジでつけられた火傷の後が、薄く残っている。
エンジン&ミッションが4ストロークのロータリーギヤというのが時間が経つにつれ、どんどん気に入らなくなってきた。自動円心クラッチというメカニズムを持ち、世紀のベスセラーのホンダスーパーカブのエンジンではあったが、ノークラッチのモトロッサーってのがどうしても許せなかったのだった。
そんな時、友人の粟野仁(初代頭脳警察ベース)が、当時の俺たちの憧れであったトーハツ・ランペットという、50ccのスーパースポーツを手に入れ、見せびらかしにやってきた。
ボトムリンク式というフロントフォークのサスペンション機構を持つカブ系(郵政カブ&ハンターカブを除く)と違って、ランペットはモトクロッサーとかロードレーサーのベースになるくらいの名車で、テレスコピックというサスペンション方式をとっていた。
そのテレスコピックを散々、見せびらかされたオレは、今度は、8000円でフロントフォークのスプリングむき出しのスズキの50ccのスポーツモデルを見つけて買ってしまった。
その後、友人のロードレーサー風に改造された、またまたスポーツカブを16000円で買うことになった。オヤジにバイトして返すからと金を借り、そのバイクで新聞配達をやり始めた。しかしそのバイクもサラダオイルの缶を使ってロングタンクにされ、お決まりのゼッケン10番を付けられ、お椀のヘルメットを半分に切ってシートストッパーにし、排気管は直管で、凄まじい排気音だった。
真っ暗闇の早朝に新聞配達をされた方は、さぞいい迷惑だったろうと、いまでも悪かったなぁと思ってしまう。
果たしてそんなレーサー風に改造されたバイクのどこに新聞を積んでいたのか、いまだに不思議でならない。
新聞配達をさっさと終わらせ、学校へ出かけるまでの時間を使い、コーナーリングの練習などに邁進していた日々であったが、やはりここは安全を考え、ヘルメットが欲しくなった。オヤジに頼んだところ、無免許でも乗ってることには変わりないんだからと、2800円でジェット型のヘルメットを買ってもらった。いまだに随分と甘やかされて育ったものだとオヤジに感謝すると同時に、自分を反省している・・・・かな?
ある夜、仲間たちとツルんで遊んでいたときに仲間のひとりが、ここで待っていてくれとオレを待たせ、何人かで、ある家からバイクを引っ張り出してきた。
オレはてっきりその家が仲間の誰かの家であるのかと思っていたのだが、その半年後に刑事がふたりオレの家へ来て、そのまま警察署に連れて行かれた。
“ふざけんじゃねぇよ”と脅されながらも、刑事たちの言ってることが、何のことを言ってるのかさっぱり見当がつかない。
話を聞いていくうちに、あぁ、あの日のことか、そうかあれはバイクを盗んでいたのかということが、だんだんとわかってきた。
盗んでいた当事者ならわかるだろうが、何のこともない単なる日常のひとコマのことだったオレには記憶が定かであるはずがない。そして、それが窃盗事件だということがわかるとオレは黙秘し、愚かにも仲間達をかばうという行為に入っていった。
しかし当事者たちは、ぺらぺらとゲロしてしまい、最後までかばっていたオレは一番悪い役回りになってしまった。学校には連絡しないと約束していたにも関わらず警察は、当時オレの通っていた海城学園へ連絡したのだった。
折り合いが悪く、いつも睨まれていた当時の担任の教師により、即自主退学という形を取らされてしまった。
いまだに、無罪のオレを落とし込んだ刑事と担任教師には恨みが残っている。
今でも、もし会ったらぶん殴ろうと思うこともあるが、その担任教師も生きていたとしてもかなりの高齢になっているだろうし、オレの人生が変わるわけでもないし、まっ、いっかと思うことにしている。
しかし、警察への根強い不信感と憎悪は、このときに芽生えたというのも確かで、その後の人間形成に大きく関わってくれたということは、逆に感謝すべき出来事だったのかもしれない。