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COLUMN

オレの通った、金沢八景にある

2017年11月17日 自分史

 オレの通った、金沢八景にある関東学院大学(以降、関学)とは、こと学園紛争においては変な大学であった。

 赤軍派が「共産主義者同盟赤軍派」として神奈川の城ヶ島で結成され、関学で旗揚げ式をやったという事もあるのかもしれないが、中核〈革共同中核派・・白ヘル〉にしろ、青解〈社会主義青年同盟解放派・・青ヘル〉にしろ、みんな赤いヘルメットを被らされていたのだから・・・。

 横浜の右翼が500人で襲撃してきたとき、背の低いミスターMがひとりで腕を組んで、仁王立ちに待ち受け、立て看の後ろに50人の精鋭が武装して隠れ、相手が接近したと同時に立て看を倒してその500人に襲いかかり、数を頼りにしていた敵軍は、不意の攻撃に乱れに乱れ、各固撃破されていき、見事、50対500の闘いは大勝利に終わったというエピソードがある。

 聞いた話だが、その後の第二回戦は、もう相手も警戒し、関学側はそれはそれはボコボコにされ、悲惨な敗北を喫したという。

 当時、ベトナム戦争真っ最中の折り、相模原補給廠から、国道16号線を使い、米軍は戦車などを横須賀へ運んでいた。

 その16号線の要衝にあったのが関学であり、これをみすみす見逃す手はなく、16号線をバリケード封鎖し、横須賀への戦車輸送を阻止しようという作戦が立てられた。

 学園内の中央に、よくこれほどの数がいたもんだというくらいに集まった赤ヘルの集団は、それは壮観な眺めであった。

右 から経闘委?(笑)〈経済学部闘争委員会〉、SD〈青雲ドミトリー・・・寮闘委〉、革命戦線〈当時、赤軍派はすでに地下に潜り非公然活動に徹していたので、赤軍の公然部隊〉、そして一番左手に冗談好きな奴がいたもので、頭脳警察と書かれた赤ヘルの集団が、これみよがしに隊列をなしていた。そして学外に待機している機動隊に向かって突撃し、16号を一瞬ではあるけれど、封鎖してしまったのである。

 もちろん前夜から用意されていた火炎瓶などに対し、機動隊の放水車から吹き出される水鉄砲、催涙弾が、あっちこっちに飛び交ったのはいうまでもない。

 ひと騒動が終わって、家へ帰ると、オヤジに怒鳴られた。「CIAを甘く見んじゃねぇぞ!」・・・・ふぅ~んと軽く聞き流し、オレは自分の部屋へ入っていったのだが、これが後に、オレに大いなる疑問を投げかけることになろうとは考えてもいなかった。

 軍属としてアメリカ軍に勤務するオヤジは、所沢基地から、ベトナム戦争が激化するのと呼応するかのように相模原補給廠へ転任した。家でも、わけのわからない暗号めいた記号のようなマル秘?文書が、よくテーブルの上にも置いてあった。

 そういえば以前、オヤジはラオスを担当していると言っていた。

 確かに作戦が近くなると米本国から戦車、各種武器、弾薬などを相模原に仕入れ、それを横須賀から作戦地域に送る仕事が忙しそうだったのを覚えている。

 そして、こともあろうか、その戦車輸送を相模原補給廠から指揮していたのが、オレのオヤジであったと聞かされたときは驚いてしまった。

 それを妨害されたオヤジにとっては、何とも言い難い憤りに駆られたであろう事は、想像に難くない。まして、やっているのが自分の息子であろうとは。

 それに関しては、まったくもって同情してしまうオレであった。

 しかしオレは、そのオヤジの働いた糧で喰わせてもらっているわけで、オヤジの仕事に対して、とやかく言ったことは一度だってない。これは思想という問題とか、喰わせてもらってる恩義とか、そんな下らないことでは決してない。

 お互いに尊重しあっての故であって、その為か、オレがそんな過激な活動をしていたにせよ、家の中では親子の断絶(当時の流行語)などということとは、まったく無縁であった。

 それから十数年を経たある日、ふとオレの頭に忘れていた例の疑問が横切った。

 あれっ・・・なにっ・・・ラオス?

 ラオスにアメリカ軍はいないよなぁ・・・。

 そんな疑問に後押しされて、ちょっと資料を漁ってみたところ、確かにアメリカ軍はラオスには存在していなかった。しかし・・・だがしかし! いたのだ!

 北ベトナムから南ベトナムの解放戦線(ベトナム・コンサン・・・通称ベトコン)に、人員、物資を送る、有名なホーチミンルートという補給ルートがあったのだが、そのホーチミンルートというのが、北ベトナムからラオスを迂回して南ベトナムへと繋がっていた。

 このホーチミンルートを叩かねば、アメリカはさらに苦境に陥ることになってしまう。

 そこでアメリカは、ラオスにエア・アメリカという民間航空会社を作り、その民間航空機?でホーチミンルートに猛攻撃を加えていたのだ。

 しかも、そのエア・アメリカは全員CIAのメンバーで固められていた。

 あくまでも国際法上、アメリカ軍はラオスには存在しないことになっているので、墜落しようが、誰が死のうが、秘密部隊であるのでベトナム戦争での死傷者数などに発表されることはまったくない。

 じゃ、そのラオスを担当していると言ったオヤジは何者なんだよ!?

 いままで、何度か聞いたことがある。

「オヤジは本当はCIAの局員なんじゃないの?」

 4回目に、やっと返事らしきものが返ってきた。

「CIAは、どこにいるのかわからないので、ものすごく気を使っていた」・・・・と。

 その返事をもらって、オレは一応、満足はしたのだが、果たして、その言葉自体が、オヤジの真の姿であったのかどうかは定かではない。

 その後、“エア・アメリカ”という映画が公開され、オレは勇んで、その映画を観たのだが、そんな実像に触れることはまったくない、ただのB級の映画であった。

 甲賀流忍術の本家である望月家と、同じ九曜星の家紋を持つ我が中村家の家系に於いて、忍びの血は、いまでも脈々と流れつづけているのであろうか・・・・???

 子供の頃に、これは代々受け継がれている呪文なので、しっかりと覚えるようにと、教えられたのが、いまでこそ忍者映画などで良く出てくる“臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前”という、魔除けとされる九字を切るという技法であった。

 そんなウソかマコトかわからないロマンであるが、その末裔だとしても、オレは中学の時に逆上がりが出来なくて、追試を受けたことがある。

 その昔、忍術を志すものは、成長の早い麻を使って、ジャンプの練習に勤しんだという。

 しかし、現代に於いて麻は、また別の使い方になってしまっているので、いつまで経っても先の方を切られてしまい、成長出来ないのである・・・これではジャンプの練習は出来まい・・とは、いつものオレの冗談話である。

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