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子供の頃の記憶の片隅

子供の頃の記憶の片隅

2017年11月17日
自分史

 子供の頃の記憶の片隅にあるエピソードを、断片的に書き出してみようと思う。

 以前、親父達に連れられてアメリカ人の連中と、よくピクニックのようなものに連れて行かれて、そこでひとり野球をやって遊んでいたということは書いたが、その頃、西武園やユネスコ村へよく遊びに連れて行ってもらったことがある。

 いまの西武球場駅は、その昔、「ユネスコ村」という名の駅?であり、そこからユネスコ村へ行くのに、カバのバスと象のバスがあって、これは両方ともオープンデッキで2、30人乗れるようになっており、これに乗りたいと言って、駅へ向かおうとしている親を泣いて困らせたことがある。

 その近辺はいまはトトロの森として有名になっているが、ユネスコ村行きのバスが猫バスの原型ではなかったのかと宮崎監督に聞いてみたい気もある。

 そして、そのユネスコ村から西武園へは、お伽電車というとっても可愛い電車に乗って行けるようになっているのだが、ある時、何度も乗ったことがあるそのお伽電車の停車前に、ホームへ飛び降りたことがあり、飛び降りたのはいいが、勢いがついているもので、前に行こうとする身体を追いかけて足をもつれさせ、そのまんまホームの上をゴロゴロと転がっていったのを鮮明に覚えている。

 そこで初めて学校で習う前に、慣性の法則というものを身をもって体験したという天才的ともいうべき少年?であったのだ。

 あとから親父の話を聞いてみると、そのまたもっと子供の頃に、前から飛んでくる飛行機を見上げていて、上空を後ろへ飛んでいく飛行機とともに、そのまんま後ろへひっくり返るような大バカ者(天才?)だったらしい。

 親父の自転車の後ろによく乗せてもらっていた。

 ある日、近所の中学校か何かの運動会に連れていくというので、満面に笑みを浮かべ、颯爽と自転車後部にまたがった。

 親父が、さあ行くぞっ!という声をかけてくれたので、嬉しさのあまり思わず「バンザーイッ!」と両手を上にあげた瞬間、自転車がスタート、それと同時に、オレは思い切り後ろへもんどり打って落っことされていた。

 ここでも慣性の法則の再確認が出来たということで、なかなかのものである。

 狭山湖の親戚の家に夏によく遊びに連れて行かれた。

 よくその辺の川で、従兄弟達と遊んでいたものだが、ある日、小さな橋のかかった下がコンクリートで固められている川を上から覗き込んでいるときに、気がついたら、オレはその川のコンクリートの上に大の字になって寝そべっており、両頬を水がチョロチョロと流れている・・・ふと見上げると、慌てた顔をして近所のオジさんが降りてきて、オレを抱えて親戚の家まで運んでくれた。

 そう、オレは川の縁から覗き込んでいるうちに、そのまんま落下していったらしい。

 顔を血だらけにして腫れ上がらせながら、やっぱりオレの頭は詰まりすぎていて重いのだ、これから気をつけねばと、運動神経の鈍さとか、自分のバカさ加減を棚に上げ、前向きに考える性格はこんな風に形成されていったのであった。

 大人になってからも、こんなバカさは相変わらず続いていた。

 雨の日にバイクを走らせていたのだが、明治通りと早稲田通りの交差点近くで、急に信号が赤になり(実際はその前に黄色がついているはずだが・・・)、このスピードでは止まれない、さてどうしたものかと頭がマッハで回転しているときに目の前に段ボールが一枚落ちているのが目に入った。

 そうだ、あの段ボールの上でブレーキをかけよう!咄嗟の出来事にしては我ながらいいアイデアだと思い、前輪がその段ボールの上に乗った瞬間、思い切り前ブレーキをかけた。

・・・・・・そう、そのままバイクとともに身体もすっ飛ばされていったことは間違いない。やっぱりタイヤのゴムより段ボールのほうが摩擦係数は低いと実感出来た貴重な瞬間であったのだ。

 奇跡的な出来事もある。

 ある路地を(オレは広い道はゆっくり走るくせに裏道を飛ばす癖がある)スコルピオで走っていると、いきなり左の路地からオバちゃんの運転するスカイラインが飛び出してきた。

 オレは思わず、ブレーキングしてバイクを横倒しにすると同時に、シュワッチとばかり、宙を舞い、一回転して、見事に10点満点の着地をやってしまったのだ。

 近くの工事現場からは拍手が起こり、苦笑いしながら手をあげていたオレであったのだが、そんなオレを、フンッと鼻で笑うように謝罪の言葉ひとつなく走り去っていったオバちゃん(この場合、クソばばぁと呼びたい!)に腹が立って腹が立って、その日、一日何と気分の悪かったことか・・・。

 居眠りでガードレールに激突して車を潰したり、ダンプに追突した後、応急修理して出かけ、その日のうちに初台で大型トレーラーとガードレールに挟まれ、窓から出て来なければならないような事故でまた一台潰し、荻窪で車を横転させたり、大事故はいろいろと体験しているのだが、かすり傷ひとつ負ったことがない。

 強いて言えば、前の自分史に書いた左肘のシリンダーの火傷の痕くらいかな・・・・

 もうひとつ奇跡的な事故のことを書いてこの回は終わりにしよう。

 ある小雨降る夜中、マセラティー・ザガート・スパイダーで帰宅途中に、関越手前の陸橋で、左側を走っていたのだが、陸橋の下り坂で右側を走る大型トレーラーが、頭をセンターのガードレールに突っ込み、当然、後ろのトレーラー部分はジャックナイフ現象で、左を走るオレのほうに迫って来た・・・。

 その時はまだ、慌ててはいるのだが、妙に冷静に走っていたのだ。

 しかしその直後、今度はその後ろにいた、またまた同じくらいの大型トレーラーが、オレに襲いかかろうとしているトレーラー部分に思い切り追突してきたのであった。

 鈍い音をたてて激突されたそのトレーラーのテールランプやらバンパーやらの破片が、スローモーションでオレの車のフロントウインドーに降りかかってくる。

 さながら、その時、握っているステアリングは単にゲームのコントローラーと化していて、その破片を右に左にかいくぐり、ボスキャラを倒すまでもなく、陸橋の先の安全地帯へと車を停車することが出来た。

 ほんの数秒の出来事であったのであろうが、神とか仏とかいう名を出すのは不本意だったので、とにかく何かにありがとうと心の中で呟いていた。

 いまはさほどゲームにはハマっていないが、その時ほど、単なる時間の浪費と思いながらもゲームを嗜んでいたことが無駄ではなかったことを実感したことはない。

九字を切る話が出たついで

2017年11月17日
自分史

 九字を切る話が出たついでに、先祖の話をしておこう。

 祖父(甚五郎)は父が13才の時に他界しており、子供の育て方などわからなかった父は、勤めていたアメリカ軍の家庭などを見て、当時、憧れであったアメリカの典型的な中流家庭を指標とし、オレを育てたと言っていた。

 要するに開放的に育てたということだ。それと同時に、当時のどの親も思っていたであろう、一流大学に入れて一流企業に就職させたいという極々一般的な考えも持ち合わせていた。

 母親は近所の国立病院に勤務しており、オレは祖母(喜美)に育てられた典型的なお婆ちゃんっ子である。

 祖母は、向島の和菓子製造会社で働いていたのだが、関東大震災の折りに大八車で所沢まで帰り、当地で白仙堂という和菓子屋をやり始めた。

 そして、祖祖父の金五郎の連れ合いであるお銀さんという「金銀コンビ」の祖祖母がいるのだが、彼女の出生が、まことに謎なのである。彼女は、いま村山貯水池として知られる狭山湖の水の中に沈められている勝楽寺という村の出身である。

 一昨年に残念ながら他界してしまった親戚の長老に、元気なうちに話を聞いておかねばとだいぶ突っ込んだインタビューをしたことがある。

 彼の話を再現すると、

「村に入ると荷車一台通れるかどうかの細くまっすぐな一本道があってな、入るとすぐ右隣に広場があり、石段があった」

 この時点で、広場と石段という材料でそれは神社だということがわかる・・・。

「石段を登るとお諏訪様があってな、でっかい樫の木が後ろにあり、そのそばに権現様があったんじゃ。」

 お諏訪様とはすなわち諏訪大明神のことであり、龍を祀るとともに、伝説ではあるが、甲賀望月三郎を祀っているとも言われている。

 権現様とは知っての通り徳川家康のことであり、長老の話によると、昭和4年の堤防工事の折りに放火されて焼けてしまったのだそうだ。

 その権現様の放火のあたりがとっても謎を呼ぶのであるが・・・、

「その一本道を行くと左手に中山という家があって、そこにおまえの曾婆さんであるお銀さんが預けられていったということじゃ、なんでも両親は京へ勤王を討ちに行くとかで預けられていったらしい」。

 多摩の近辺から京へ勤王を討ちに行くということであれば、新撰組でないにしても幕府方に違いないわけで、その証拠にお銀さんは、葵の重箱とともに中山家に預けられたらしい。新撰組の名簿を見ても、名前がわからないのでは調べようがないが、祖母の姉妹の嫁ぎ先の親戚の末っ子が八王子の荒井家に養子に行っており、その末っ子の娘がいまや超有名なアーティストになっているYさんである。

 昨年、逗子のイヴェントが終わってから、そんな話をしていたら、

「じゃPANTAさんも沖田の血を引いてるんだよね」と言われた。

「それで最近、どうも空咳が止まらないのか!」などと冗談で返したのだが、しかし残念ながらオレと彼女は親戚ではあるが、血のつながりはないのである。

 家の家紋が九曜星という甲賀望月家の家紋であり、“臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前”という印を結ぶことを教えられたオレにとっては、どうにもこの勝楽寺という山間の小さな村が甲賀忍者の隠れ里に思えてならないのであった。

 事実はどうであったとしても、オレにとっては単にロマンとして興味津々のことであった。

 幕府のお庭番である甲賀忍者の一族が、娘を親族に預けて京へ上り、勤王派を討ちに行くという妄想が、頭の中ですでに暴走し始めてしまっていたのである。

 関西ツアーをやると時々、帰りに滋賀県甲賀郡甲賀町を訪れ、忍者屋敷でオジさんと薬草茶を飲みながら談笑してくる。

 そこは望月三郎の本家であり、九曜星の真ん中には本家の本という字が書かれてある。

 ずっと薬屋を営んでいたらしいが、いつの日か望月家の本家の忍者屋敷だということがわかり、伊賀の忍者屋敷ほどポピュラーではないが、それなりに観光客はパラパラと来訪する場所である。

 これまた余談であるが、伊賀忍者と甲賀忍者が仲が悪いというのは物語の中だけで、実は伊賀の忍びの里にも望月三郎の祠が祀られているのである。

“伊賀の影丸”という漫画がヒットしてからは、忍者と言えば伊賀忍者というようにメジャーになってしまったのだが、それまでは忍者と言えば甲賀忍者を指したものである。

 望月家の発祥の長野県望月町では、いまや九曜星を持つ家はなく、みんな七曜星とかの変形に変わっている。

 これは武田に破れて以来のことらしいが、有名な真田幸村も、この九曜星を六文銭に変えた甲賀一族であり、小説の中のことであろうが、筧十蔵、根津甚八など、みんな甲賀の忍びである。

 忍者の発祥など語っていると大変なことになるので、興味のある方は文献などを見てもらいたいものだが、元々、諏訪大社の修験者達が火薬、そして薬の知識に長けており、その修験者達が後の忍者となっていったというのが定説になっている。

 それは真田一族が大阪城入りするときに、全員、修験者の扮装でやって来たという話にも通じている。

 さて話を戻して、勝楽寺がもし諏訪大社を模したものであるならば、必ず上社と下社という形になっているに違いないと踏んだオレは付近の探索を始めた。

 なかなかに裏付け作業は手こずったのであるが、何と、母の親友である元同僚の看護婦さん、Sさんの勤めている白十字病院というのが東村山市諏訪町というところであるということがわかり、そこに神社も発見し、狭山湖のお諏訪様、そして多摩湖の丘陵にある諏訪町とが、オレの中では見事に合致し、妄想は完結したのである。

 ただ昭和4年に、何故ここに人工湖を作らねばならなかったのか・・・何故、工事中に権現様(家康公)は放火されなければならなかったのか・・・管轄は東京都水道局であるのだが、ミステリーの謎を解くにはあまりに面白すぎる話である。

 例え甲賀の隠れ里が、まるで根拠のないものであっても、誰かに小説にでもしてもらいたいくらいオレの妄想を掻き立ててしまうのは致し方ない。

 ちなみに余談ではあるが、友人であるDJのケイ・グラント(最近は“PRIDE”のリング・アナでもお馴染み)の先祖は、伊賀上野から練馬を開墾せよ、という幕府の密命を受けて派遣された伊賀忍者の末裔である。

オレの通った、金沢八景にある

2017年11月17日
自分史

 オレの通った、金沢八景にある関東学院大学(以降、関学)とは、こと学園紛争においては変な大学であった。

 赤軍派が「共産主義者同盟赤軍派」として神奈川の城ヶ島で結成され、関学で旗揚げ式をやったという事もあるのかもしれないが、中核〈革共同中核派・・白ヘル〉にしろ、青解〈社会主義青年同盟解放派・・青ヘル〉にしろ、みんな赤いヘルメットを被らされていたのだから・・・。

 横浜の右翼が500人で襲撃してきたとき、背の低いミスターMがひとりで腕を組んで、仁王立ちに待ち受け、立て看の後ろに50人の精鋭が武装して隠れ、相手が接近したと同時に立て看を倒してその500人に襲いかかり、数を頼りにしていた敵軍は、不意の攻撃に乱れに乱れ、各固撃破されていき、見事、50対500の闘いは大勝利に終わったというエピソードがある。

 聞いた話だが、その後の第二回戦は、もう相手も警戒し、関学側はそれはそれはボコボコにされ、悲惨な敗北を喫したという。

 当時、ベトナム戦争真っ最中の折り、相模原補給廠から、国道16号線を使い、米軍は戦車などを横須賀へ運んでいた。

 その16号線の要衝にあったのが関学であり、これをみすみす見逃す手はなく、16号線をバリケード封鎖し、横須賀への戦車輸送を阻止しようという作戦が立てられた。

 学園内の中央に、よくこれほどの数がいたもんだというくらいに集まった赤ヘルの集団は、それは壮観な眺めであった。

右 から経闘委?(笑)〈経済学部闘争委員会〉、SD〈青雲ドミトリー・・・寮闘委〉、革命戦線〈当時、赤軍派はすでに地下に潜り非公然活動に徹していたので、赤軍の公然部隊〉、そして一番左手に冗談好きな奴がいたもので、頭脳警察と書かれた赤ヘルの集団が、これみよがしに隊列をなしていた。そして学外に待機している機動隊に向かって突撃し、16号を一瞬ではあるけれど、封鎖してしまったのである。

 もちろん前夜から用意されていた火炎瓶などに対し、機動隊の放水車から吹き出される水鉄砲、催涙弾が、あっちこっちに飛び交ったのはいうまでもない。

 ひと騒動が終わって、家へ帰ると、オヤジに怒鳴られた。「CIAを甘く見んじゃねぇぞ!」・・・・ふぅ~んと軽く聞き流し、オレは自分の部屋へ入っていったのだが、これが後に、オレに大いなる疑問を投げかけることになろうとは考えてもいなかった。

 軍属としてアメリカ軍に勤務するオヤジは、所沢基地から、ベトナム戦争が激化するのと呼応するかのように相模原補給廠へ転任した。家でも、わけのわからない暗号めいた記号のようなマル秘?文書が、よくテーブルの上にも置いてあった。

 そういえば以前、オヤジはラオスを担当していると言っていた。

 確かに作戦が近くなると米本国から戦車、各種武器、弾薬などを相模原に仕入れ、それを横須賀から作戦地域に送る仕事が忙しそうだったのを覚えている。

 そして、こともあろうか、その戦車輸送を相模原補給廠から指揮していたのが、オレのオヤジであったと聞かされたときは驚いてしまった。

 それを妨害されたオヤジにとっては、何とも言い難い憤りに駆られたであろう事は、想像に難くない。まして、やっているのが自分の息子であろうとは。

 それに関しては、まったくもって同情してしまうオレであった。

 しかしオレは、そのオヤジの働いた糧で喰わせてもらっているわけで、オヤジの仕事に対して、とやかく言ったことは一度だってない。これは思想という問題とか、喰わせてもらってる恩義とか、そんな下らないことでは決してない。

 お互いに尊重しあっての故であって、その為か、オレがそんな過激な活動をしていたにせよ、家の中では親子の断絶(当時の流行語)などということとは、まったく無縁であった。

 それから十数年を経たある日、ふとオレの頭に忘れていた例の疑問が横切った。

 あれっ・・・なにっ・・・ラオス?

 ラオスにアメリカ軍はいないよなぁ・・・。

 そんな疑問に後押しされて、ちょっと資料を漁ってみたところ、確かにアメリカ軍はラオスには存在していなかった。しかし・・・だがしかし! いたのだ!

 北ベトナムから南ベトナムの解放戦線(ベトナム・コンサン・・・通称ベトコン)に、人員、物資を送る、有名なホーチミンルートという補給ルートがあったのだが、そのホーチミンルートというのが、北ベトナムからラオスを迂回して南ベトナムへと繋がっていた。

 このホーチミンルートを叩かねば、アメリカはさらに苦境に陥ることになってしまう。

 そこでアメリカは、ラオスにエア・アメリカという民間航空会社を作り、その民間航空機?でホーチミンルートに猛攻撃を加えていたのだ。

 しかも、そのエア・アメリカは全員CIAのメンバーで固められていた。

 あくまでも国際法上、アメリカ軍はラオスには存在しないことになっているので、墜落しようが、誰が死のうが、秘密部隊であるのでベトナム戦争での死傷者数などに発表されることはまったくない。

 じゃ、そのラオスを担当していると言ったオヤジは何者なんだよ!?

 いままで、何度か聞いたことがある。

「オヤジは本当はCIAの局員なんじゃないの?」

 4回目に、やっと返事らしきものが返ってきた。

「CIAは、どこにいるのかわからないので、ものすごく気を使っていた」・・・・と。

 その返事をもらって、オレは一応、満足はしたのだが、果たして、その言葉自体が、オヤジの真の姿であったのかどうかは定かではない。

 その後、“エア・アメリカ”という映画が公開され、オレは勇んで、その映画を観たのだが、そんな実像に触れることはまったくない、ただのB級の映画であった。

 甲賀流忍術の本家である望月家と、同じ九曜星の家紋を持つ我が中村家の家系に於いて、忍びの血は、いまでも脈々と流れつづけているのであろうか・・・・???

 子供の頃に、これは代々受け継がれている呪文なので、しっかりと覚えるようにと、教えられたのが、いまでこそ忍者映画などで良く出てくる“臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前”という、魔除けとされる九字を切るという技法であった。

 そんなウソかマコトかわからないロマンであるが、その末裔だとしても、オレは中学の時に逆上がりが出来なくて、追試を受けたことがある。

 その昔、忍術を志すものは、成長の早い麻を使って、ジャンプの練習に勤しんだという。

 しかし、現代に於いて麻は、また別の使い方になってしまっているので、いつまで経っても先の方を切られてしまい、成長出来ないのである・・・これではジャンプの練習は出来まい・・とは、いつものオレの冗談話である。

自分史vol.7でシムカ1200Sクーペ

2017年11月17日
自分史

自分史vol.7でシムカ1200Sクーペの話をした。オレが乗ってきた車&バイクには、それぞれ数々のドラマがあるのだが、このシムカほどのドラマはそうあるまい。

 とにかくこんなに惚れ込んだ車は滅多にない。

 排気量1200ccであるにも関わらず、当時としては、かなりのハイパワーである82psという直列四気筒のエンジンをリアに積み、フロントにラジェターを持ってきた高性能スポーツカーである・・・と、少なくともオレはそう思いこんでいた。

 ギヤ比が高いので、街乗りとかのスタート時には、どっちかというと轟音をたてながらもヨッコラショという感じの出足なのであるが、一旦走り出したら、そのハイギヤードを生かした高速ツーリングは何者にも代え難い快感をもたらしてくれたものである。

 エンジンがリアに置かれているため、プラグ交換などは熱くヒートしたエンジンルームの奥まで手を突っ込み、手探りで作業せねばならないので、何度、腕を火傷したかわからない。

 エンジンフードを開くと横にプラグが四つ並んでいる友人のミニクーパーなどを見ると、ただただ整備のやり易さに羨ましくなったものである。

そのシムカの最大の魅力は、何と言っても、オレを魅了して止まないそのスタイリングである。後で語る事件にも関係してくるのだが、もともと、シムカというフランスのメーカーは、イタリアのフィアットをフランス国内でライセンス生産していたメーカーで、この1200Sクーペの元になっている1000クーペなどは、どちらかというとフィアットの850クーペの流れを汲んだスタイルである。

 そしてこの1200Sのボディの脇には、誇らしげにトリノ・ベルトーネというエンブレムが貼られている。

 そう、このスタイリングをデザインしたのはあのベルトーネなのである。

小ぶりながら、このスタイリッシュなクーペをこよなく愛でていたのだが、二年目にして事件は起きた。

 ドンッという音と共に、シフトレバーがどこへも入らなくなってしまったのだ。近くのご近所付き合いをさせてもらっているクルマ屋さんの場所を借りて、ミッションを降ろし、バラしてみたら、何とセカンドギアのシンクロリングが砕け散っており、その破片がローギアまで傷つけてしまっているではないか・・・。

これは一大事とばかり、当時、シムカを扱っていたディーラーの国際興業へ行き、ロー&セカンドギアとシンクロリングを注文出来るか?と聞いたところ、そのパーツは2種類あって、どっちかわからないので、両方注文しなければならない、そして注文してもいつ来るかはわからないし保証しかねるという返事を返されてしまった。

とにかく日本で20台しか輸入されておらず、果たしてその当時で10台走っているかどうかという車なので、そういう返事を返されても無理はないのだが、じゃちょっと考えますと答えて、その場を後にし、さぁ、どうしようかと考えたあげく、前述したようにフィアットのライセンス生産をしていたのだから、パーツは、たぶん共通のものを使っているに違いないと思い、今度はフィアットのディーラーをやっていた西武自動車に乗り込んだのであった。

 そしてフィアット850の、一速と二速のギアを見せてもらったのだが、まるでうり二つのように見えて、微妙に大きさとかがズレて違うのである。

 このときの落胆と言ったら、自分でもかつてないくらいくらいのものであった。

さあ、次の手を打たねばと思ってる矢先、友人が、フランスの日本大使館に伝手があるので連絡してあげるよと言ってくれて、先方の日本大使館の友人も快く、オレの頼みを受けてくれたらしい。

 それはもう大喜び!さっそく問題の一速と二速のギア、及び破損したシンクロリングのカケラを厳重に梱包し、これと同じものを買って、日本に送って欲しいと、フランスの日本大使館へと送ったのであった。

・・・・・・・それから随分と月日は経ち、半年、そして一年になろうかという頃、ひょっとして船便で送ったのかなぁ・・、だとしたら今頃、インド洋あたりなのかなぁ・・と、不安な気持ちを抑えながら、カレンダーと睨めっこする日々が続いていた。

 そして、これはやはりもう一度、連絡を取ってみたほうが良いと思い立ち、先方に連絡を入れてみると・・・、何と!・・・航空便でとっくの昔に送ったとのこと。

 じゃ、何で届いていないんだ? これは一体、どうしたことだ!

 もう頭がパニック状態のまま、その送ってくれた便名も教えてもらい、航空会社に連絡を取ってみたところ・・・、これまた何と!!!!! 赤軍派(正確には日本赤軍)にハイジャックされて、リビアのベンガジで爆破されていたのであった!!!!!!!!!!

 確かに、ハイジャックの話は知っていた。しかし、その飛行機にオレの大事な大事な大事な大事なパーツが入っていたとは・・・・あぁ、何と皮肉なことよ。

 資本主義の権化のような車のパーツのことで赤軍派に文句を言うわけにもいくまいし、オレはどこにこの怒りをぶつけたらいいのだと、宙を見つめて途方に暮れていたのである。

(この話は、Tipoという車雑誌に、オレが海に向かって、赤軍派のバカヤロー!と叫

んでいる絵で終わる漫画になっている)

★ 追加のはなし

つい先日、リッダ闘争32周年記念パーティーがあり、オレも呼ばれて顔を出してきたのですが、スピーチが回ってきたところで、頭脳警察の事務所の電話を無断使用した電話代とか、オレの大事なシムカのパーツのこととかを、同じく諸々の被害?を被っているW監督などとともに、ぶちまけて来ました。

  やり場のなかった昔年の恨み?を思い切り当事者達にぶつけられて、本当に清々した次第(爆) 

それからしばし空虚な日々が続いたのだが、そうもしていられず、最初に戻って、国際興業へパーツを注文に行ったのであった。最初からそうしていればとも思うが、そこはそれ、歴史に“if”はないのだから・・・それから半年ほどして、やっとパーツが手元に届いた。

置かせてもらっていたクルマ屋さんで、友人と共にミッションを組み始めたのだが、一年半に及び工場の片隅を占拠し、それだけでもひどい迷惑をかけているのに、夜中まで工場を借りて作業をやっているものだから、親切にも、クルマ屋のご主人が夜食まで持ってきてくれて、そのことは死ぬまで忘れないくらい、今も感謝し通しである。(ちなみに所沢の内野自動車という処)

ミッションを組み始めたのは良いのだが、前述したように、一速二速ともども二種類づつあるわけである。これはもう賭けでしかない。

とにかく一枚ずつ着け終わり、車体を持ち上げ、エンジンにミッションを取り付けて、始動させ、ギアをリヴァースに入れてみる。

 しかしクラッチを話すと同時にギアも抜けてしまい、何度やっても同じ結果に終わってしまう。オレと友人は、ため息をつきながら、あぁぁ、もう一度、違うギアで組み直すか・・・と、小声で語り合っていた。

 そして、数日後、再度、エンジンに取り付け、やってみると、動いた!

 見事に復活したのである!

 その時の、あの喜びは、いまになっても、うまく表現しきれない程だ。

こうして、ほぼ二年弱の歳月をかけて復活したシムカを駆り、ZKのリハーサルだかコンサートだか、記憶が定かではないが、出動したのである。

 その帰りの出来事があまりに鮮明だったもので、こういう書き方になってしまったが、環七の大原交差点を過ぎたあたりで、隣に乗っているTOSHIが、あれっ、いま曲がって入ってきたのシムカじゃない?と言ったのだ。

 TOSHIは、ブルーバードっていうと、あぁ、赤い車でしょ?っていうくらいの車音痴。そのTOSHIの発言だからして、あぁそう、きっとそれはフィアットっていう車なんだよと、オレも適当に相槌を打っていたら、後ろにいた頭脳警察の楽器車が猛烈な勢いで隣に並んで来て、車内から夢中になって、前方に指をさして、オレに見ろと叫んでいる。

 えっ、なにっ?と、指示されるままに、前方を見てみると、真っ白い(オレのは真紅)シムカの1200Sクーペが走っているではないか!

 全国に20台しか輸入されておらず、10台現存しているかどうかという希少車が、何と復活したばかりのオレのシムカの前を走っている。

 それは、環七での猛烈なカーチェイスの始まりを意味していた。

 相手のシムカも、相当なスピードで飛ばしているのである。

 楽器車も遅れをとるまいと、必死でついてくるのがバックミラーに映し出されている。

 そしてとうとう、高円寺陸橋の手前で相手の横に並ぶことが出来たとき、窓越しに止まれと合図する真紅のシムカを見たときの、相手の驚いた顔はいまでも忘れない。

 Tさん(白のオーナー)は、国際興業のメカニックで、大好きで乗っていたのだが、まさか同じシムカに出会うなんてと、オレ以上に感激してくれた。

 これからメインテナンスなど、いろいろ面倒みますよと言ってくれて、出会えたこともそうだけど、どれほどその言葉が嬉しかったことか。

 それから随分と世話になったTさんだが、現在は札幌営業所に転勤になり、いまでも付き合いは続いている。

そんなTさんの友人でもあり、TOYOTAの営業マンだった人が、Tさんを介してオレの友人となり、これまたこの人がフレンチブルーのシムカ1200Sクーペに乗っていたのである。

これは一度、一緒にツーリングしなきゃいけないね、ということになり、ある日、フランス国旗ならぬ赤、白、青のシムカで行く当てもなく都内を流していた。

 途中、トラックの運転手から、陸送かい?などと冷やかされながらも、奇妙な出会いで始まった三人の気持ちは、恥ずかしさというよりも、それさえ忘れてしまうような妙な連帯感で繋がっていたように思う。

ちょっと車を止めて休憩しようということになったのだが、目的地など設定無しに走っていたにも関わらず、オレが先導していたもので、何故か通い慣れた日比谷野外音楽堂の脇へ着いてしまっていたのである。

 そして、その野音からは、ロックバンドの轟音が轟き渡っていた。

 あぁ、キャロルか・・・・そう、それはあのステージを燃やして?問題となったキャロルの解散コンサートだったのだ。

 何人かの音楽関係者とも顔を合わせたのだが、いや、コンサートを観に来たのではないと説明するのが、面倒臭くなるくらい、車をわかる人間でなければ、いや、わかっていたとしても、あまりに複雑で奇跡的で奇妙な繋がりを説明しても、たぶん理解不能であったろうと思う。オレ達でさえ、あまりの運命的な出会いに茫然自失しているといった具合だから、第三者にわかるわけがない。

随分と長いシムカの話になってしまったが、車のドラマに関しては、冒頭でも述べたように話尽きないのである。

 次に乗ったアルファロメオの1750GTヴェローチェは一ヶ月点検から返って来るときに、目黒通りで追突され、乗っていたメカニックは無事だったらしいが、深紅のイタリアンレッドのオレのアルファは、見事に爆発炎上してしまった。

 じゃ、しばしアメ車に乗ればと、先ほどのシムカで知り合い、すでに仲のいい友人となっているTさんが勧めてくれたので、シボレーシェベル・マリブーというフルサイズのアメ車に不本意ながらも、当座のつなぎとして乗っていた時代が、マラッカを作ろうとしていた頃だったのである。

それにまつわるエピソードなどは、また今度にしないと、いつまでたっても終わらない。

オレに車&バイクの話はさせないほうがいいと思うよ→スタッフ様へ

中学生の時、オヤジが

2017年11月17日
自分史

 中学生の時、オヤジが買ってきたミヤペットという50ccのバイクに乗っていた。

前進2段の2ストロークの変なバイクであったが、いつの間にかレッグシールドは外され、ちょっとしたモトクロッサーもどきになってしまっていた。

その後、自分のバイクが欲しくなり、探していたのだが、ある日、通りがかった農家の軒先に、放置されている?ホンダのスポーツカブがあるのを見つけた。

 ちょうど出てきたその家のオバさんに、そのバイクを譲ってもらえませんかと言ったところ、勝手に持っていっていいよと言われてしまった。

 しかしただでもらっていくのも気が引けたので、ポケットを探ってみると、なけなしのお金が450円入っており、全額差し出し、じゃこれで譲ってくださいと、オバさんに受け取ってもらった。

 家まで押して帰り、何度もキックしたり、いろいろとやってみたのだが、どうしてもエンジンがかからない。いまだったら、まず電装関係、及び燃料系をチェックするところだが、何せメカニズムの何たるかもわかってないズブの素人の中学生が、こうなったらバラすしかないなと、ただ本能のようなものに導かれるまま、エンジンをバラし始めてしまったのだ。

 シリンダー回りを外しきって一応のチェックを終えて、何にも異常が見受けられないことを確認すると、バラした時と反対に組んでいけば良いのだという単純な発想で、また元通りに戻したのだが、何故かボルト&ナット類が、随分と余ってしまった。

 その時以来、エンジンなどをバラし組み直すと、ネジの類は余るものという定説がオレの頭の中に出来上がってしまった。それを裏付けるわけでもないが、飛行機のエンジンを組み直すと、大量のボルトなどが余ってしまうらしい・・・しかしこれは問題外の恐ろしい話でもある。

 当たり前のことだが、組み上げたエンジンは、やはりかかるわけがなかった。

 これはエンジンだけでも探して来ようと、解体屋などを回った。

 しかし、スポーツカブのエンジンは見つからず、結局、スポーツカブのベースとなっているスーパーカブのエンジンを2000円で買ってきたのだが、450円のバイクが結局、高いものについてしまった事は、その後の経験に・・・・決して生かされることもなかった。

 ライトは外され、ゼッケン10番が付けられ、ボディは深紅に塗り替え、ウインカーなども外され、もちろんナンバーなどはハナっからないこのスポーツカブは、気持ちだけモトクロッサー気分を盛り上げるには充分なものがあった。

 真っ昼間から公道を避けて走り回り、ときには白バイに追いかけられ畑に逃げ込むというような、のどかな時代ではあった。

 工事中の、いまでいう西武球場のあたりに集まっていたモトクロッサーの集団に混じり、崖登りなどを楽しんでいたが、あるアメリカ人の乗る、HONDAのCL72という250ccのスクランブラー(当時はモトクロッサーのことをこう呼んだ)がいともたやすく崖を上っていくのに対抗して、かなりの助走距離をとり、マイマシンで駆け上がって行ったのだが、案の定、途中で息をついてしまい、半分くらいのところから転げ落ちる羽目になってしまったことは、いまでも忘れられない思い出としてある。

 アクシデントの思い出は話し出したらキリがないが、ある日、あまりの暑さに裸でモトクロスごっこをして遊んでいたおり転倒し、左腕がまともにヒートしきったシリンダーの上に被さり、ジューッいう音を立てて、皮膚が焦げていくのがわかった。

 家へ戻って、おふくろにやけどの手当をしてもらったのだが、いまだに左肘のところにシリンダーのフィンのスジでつけられた火傷の後が、薄く残っている。

エンジン&ミッションが4ストロークのロータリーギヤというのが時間が経つにつれ、どんどん気に入らなくなってきた。自動円心クラッチというメカニズムを持ち、世紀のベスセラーのホンダスーパーカブのエンジンではあったが、ノークラッチのモトロッサーってのがどうしても許せなかったのだった。

 そんな時、友人の粟野仁(初代頭脳警察ベース)が、当時の俺たちの憧れであったトーハツ・ランペットという、50ccのスーパースポーツを手に入れ、見せびらかしにやってきた。

 ボトムリンク式というフロントフォークのサスペンション機構を持つカブ系(郵政カブ&ハンターカブを除く)と違って、ランペットはモトクロッサーとかロードレーサーのベースになるくらいの名車で、テレスコピックというサスペンション方式をとっていた。

 そのテレスコピックを散々、見せびらかされたオレは、今度は、8000円でフロントフォークのスプリングむき出しのスズキの50ccのスポーツモデルを見つけて買ってしまった。

 その後、友人のロードレーサー風に改造された、またまたスポーツカブを16000円で買うことになった。オヤジにバイトして返すからと金を借り、そのバイクで新聞配達をやり始めた。しかしそのバイクもサラダオイルの缶を使ってロングタンクにされ、お決まりのゼッケン10番を付けられ、お椀のヘルメットを半分に切ってシートストッパーにし、排気管は直管で、凄まじい排気音だった。

 真っ暗闇の早朝に新聞配達をされた方は、さぞいい迷惑だったろうと、いまでも悪かったなぁと思ってしまう。

 果たしてそんなレーサー風に改造されたバイクのどこに新聞を積んでいたのか、いまだに不思議でならない。

 新聞配達をさっさと終わらせ、学校へ出かけるまでの時間を使い、コーナーリングの練習などに邁進していた日々であったが、やはりここは安全を考え、ヘルメットが欲しくなった。オヤジに頼んだところ、無免許でも乗ってることには変わりないんだからと、2800円でジェット型のヘルメットを買ってもらった。いまだに随分と甘やかされて育ったものだとオヤジに感謝すると同時に、自分を反省している・・・・かな?

 ある夜、仲間たちとツルんで遊んでいたときに仲間のひとりが、ここで待っていてくれとオレを待たせ、何人かで、ある家からバイクを引っ張り出してきた。

 オレはてっきりその家が仲間の誰かの家であるのかと思っていたのだが、その半年後に刑事がふたりオレの家へ来て、そのまま警察署に連れて行かれた。

“ふざけんじゃねぇよ”と脅されながらも、刑事たちの言ってることが、何のことを言ってるのかさっぱり見当がつかない。

 話を聞いていくうちに、あぁ、あの日のことか、そうかあれはバイクを盗んでいたのかということが、だんだんとわかってきた。

 盗んでいた当事者ならわかるだろうが、何のこともない単なる日常のひとコマのことだったオレには記憶が定かであるはずがない。そして、それが窃盗事件だということがわかるとオレは黙秘し、愚かにも仲間達をかばうという行為に入っていった。

 しかし当事者たちは、ぺらぺらとゲロしてしまい、最後までかばっていたオレは一番悪い役回りになってしまった。学校には連絡しないと約束していたにも関わらず警察は、当時オレの通っていた海城学園へ連絡したのだった。

 折り合いが悪く、いつも睨まれていた当時の担任の教師により、即自主退学という形を取らされてしまった。

 いまだに、無罪のオレを落とし込んだ刑事と担任教師には恨みが残っている。

 今でも、もし会ったらぶん殴ろうと思うこともあるが、その担任教師も生きていたとしてもかなりの高齢になっているだろうし、オレの人生が変わるわけでもないし、まっ、いっかと思うことにしている。

 しかし、警察への根強い不信感と憎悪は、このときに芽生えたというのも確かで、その後の人間形成に大きく関わってくれたということは、逆に感謝すべき出来事だったのかもしれない。

続きの話だが、この時

2017年11月17日
自分史

 続きの話だが、この時、オレは初めて触ったギターというものを左手で弾いていたのだった。

 小さいときはオレは右利きだったはずだ。ちょっと大きくなって野球に興味を持ち始めオヤジのピクニックなどに連れて行かれると、誰も遊んでくれないので、ひとり野球をやっていた記憶がある。

 ひとり野球というのは、見えないボールをピッチャーのオレが投げ、その見えないボール(大リーグボールか?)を、今度、バッターボックスに移動して打ち、今度は外野に回ってその打球を受け、ファーストに投げ、またバッターボックスへ戻り、今度はファーストへ滑り込むといった、とてもエネルギーのいる遊びであったのだ。

 当時、オレはかなりの赤毛で、オヤジの仲間にはアメリカ人も多く、周りの日本人からはまったく外人扱いされていたように思う。

 家の前でオヤジとキャッチボールをしたり近所の友達連中と野球をやっていたりすると、オレの下手さ?に音を上げてなのか、オヤジはオレのグローブを右手に持たせるように仕向けてきた。そう、その時、オレは左ギッチョに矯正させられたのである。

 時が経った後、理由がわかった。すごく単純明快な理由であった。

 オヤジは当時、国鉄スワローズに在籍していた往年の左腕の大投手、金田正一の大ファンであったのだった!

 左ギッチョが右利きに矯正されるという話はよくある話だが、普通の右利きが左ききに矯正させられてしまうとは・・・!

 世の中、右利きと直毛中心に回っているものだ。シャンプーのコマーシャルで、クセッ毛のモデルが出てきた試しはないし、駅の改札口を通る時はいつも横向きにカニ歩きで切符を自動改札に入れねばならない。自動販売機も電話も、ギターのチューナーもすべて右利き用に作られている。

 毎年9月16日に、グラムロックイースターというイベントを一緒にやっている秋間経夫は、マーク・ボラン大好き人間なので、実は直毛なのにわざわざずっとパーマをかけていると知ったのは極々最近の話だ。オレも随分と直毛には憧れたし、いまでもストパーをかけたいという誘惑が周期的に訪れる。

 雨が近いときはクセがひどくなり、自動的に湿度を感知するらしく、これは便利だと思ったこともあったりしたが、やっぱり風にサラサラとなびく直毛には憧れてならない。

 みんな、ないものねだりの人生を送っているのだが、今度生まれて来るときには是非、直毛で生まれてきたいものだ。

中学三年生の頃だったかな

2017年11月17日
自分史

 中学生三年生の頃だったかな、曲というものを書き始めた。

 書き始めたという言い方は正確でないかもしれない。

 何せ楽器も持ってないし、学校の音楽の成績は昔の5進法(?)で評価2だったのだから。

 それはすべて英語の歌であった。

 オヤジは米軍基地勤務だったので英語というのは日常的に使っているものでペラペラだったのだが、その子供はアメリカ人の子供と喧嘩するときだって日本語だったのだから・・・。

 夜、布団に入って枕元にノートを置き、詞を二篇ほど書き、朝、起きて学校へ出かける前にその詞に曲をつけていくという日課であった。

 オレはいままで随分と曲を書いてきたが、最初の百曲くらいはすべて英語の歌詞だったのである。

 学校の授業で“as soon as~”を教われば、そのままその夜の歌詞に“as soon as~”と入り、“so but than”とくれば、そのまま”so but than”が歌詞に盛り込まれるといった具合だ。

 とても口語、まして歌詞にはなっていなかったに違いない。思い切り文語体で書かれたその歌詞はいまも捜せば古井戸ではないが、古いノートに書き連ねてあるのが見つかるだろう。

 歌詞を書いた後で風呂に入りながら鼻歌でもないが曲をつけていた記憶もある。

 いまもそれを見ればすぐに歌い出せるだろう。不思議なことだが、ノートに書き連ねた曲が後にレコーディングされたりすると、コード譜がついていようがなかろうが忘れてしまっているのだ。

 それからしばし時が経ち、ZKの初代ベーシストであり当時のご学友であった友人がギターを買ったと見せびらかしに家へやってきた。

 それは単なるたぶん安物の(失礼)ガットギターだったのだが、オレは初めてギターというものに触れ、ちょっと教わりながら、指一本で押さえられるコードGを押さえ、ビートルズの”If I needed someone”を歌っていた。

20代そこそこの折り

2017年11月17日
自分史

 20代そこそこの折り、頭脳警察として九州をツアーで周り、阿蘇の黒川温泉で一週間ほど休暇を取っていた。

 シーズンオフということもあり、オレたち以外に客はなく、露天風呂のお湯で機材車を洗ったり、裸で庭園を走り回ったり、それは御乱行と呼んでもいい代物であった。

 街まで買い出しに行くのであるが、免許を持ってるのはオレだけしかいない。

 買い物が終わり帰って来るときに、それはそれは素晴らしい“やまなみハイウェイ”というワインディングロードを走ることになるのだが、運転してるのは新車で購入したハイエースロングとは言え、所詮、機材車であり、その事にオレの心は、不満そしてまた不満が日々積み重ねられていった。

 ここはこんな機材車で走る道ではない。スポーツカー、そうイタリー製のスポーツカー、出来れば色は赤であって欲しい・・・という願いが沸々と革新的に芽生えていったのであった。

 東京へ帰って、随分と日が経った頃、ある夜中に友人と帰宅途中、運転しているオレの左目を、確かに丸いテールランプが、かすめていった。

 オレは友人に、いまの何だろ? まさかフェラーリ250? 当時、まだフェラーリがフェラリーと呼ばれていて、マニアでも見たことも乗ったことも触ったこともないような、そして日本に存在するのかどうかもわからない時代で、まして一般には、フェラーリなん

て知られているわけもなく、いや外車というもの自体がひどく非日常のものであった。

 Uターン禁止だったにも関わらず、オレは迷いもなく車を反転させ、その車のあったあたりの中古車屋へ、タイヤを鳴かせながら戻っていった。

 かすかな街灯の明かりに映し出されたその車の前で、オレたちは無言で立ちつくしていた。

この車は一体なんだ?何て言う車なんだ? 赤い小ぶりのそのスポーツカーはダッシュボード周りはまるでフェラーリ250そのものだし、丸いふたつのテールランプもそれっぽい。でも違う、これはフェラーリじゃない。

 ランボルギーニ・ミウラのようにフロントフードに黒い樹脂でラジエターの熱抜きのスリットが開けられ、スタイルはフィアットクーペを大胆にスマートにしたような姿態。

 しかし、まだまだ青いふたりの知識では、その車の正体を解き明かすことは出来なかった。

 翌日から二人の調査が始まった。車関係の本を調べまくり、それが“シムカ”というフランスの車であることがようやく判明したのは数日経ってからのことであった。

 シムカというのは、主にフィアットのライセンス生産をフランス国内でしていた会社でフィアットの850をベースにしたシムカ1000というセダン、及びそれをベースにシムカ1000クーペという車を生産するようになった。

 中でも1000セダンは五木寛之さんの本にも登場してくるのでなじみのある人もいるかもしれないが、その1000をベースにした1000ラリーは、現在でもマニアにはよだれ物である。 

 後に1000クーペをベースに排気量を1200ccにスープアップし、空冷のリアエンジンを水冷にし、フロントにラジェターを持ってきたシムカ1200Sクーペを発表するのだが、それがこの赤い小ぶりな車の正体であったのだった。

中学時代のある日

2017年11月17日
自分史

 中学時代のある日、クラスにロータリークラブ(結婚斡旋のシステムではない)の加入の話が舞い込んで来た。会員になると外タレ等のコンサートのチケットが優先的に割り引きで手に入るという代物で、そういったものには必ずと言っていいほど、まず疑ってかかるオレではあったが、友人との付き合いもあり加入することになった。

 その第1弾として、新宿厚生年金会館でやるザ・サファリーズというグループのコンサートに行くことになった。

 当時、サーフィンミュージックからホットロッドという車の排気音などを混ぜた音楽が流行りはじめ出した頃で、仲間と一緒に勇んで出かけたものだ。

 ザ・サファリーズと言えば、ワイプアウトなどというヒット曲で、オレも知っていたのだが、ワイワイガヤガヤとオープニングを待つ客席で友人達と喋っていたところ、幕が開きエレキサウンドの響きとともにオレも友人達もワクワクした思いでステージに目をやった。が・・・・あれっ、何だ!? 7、8人ステージにいるグループは日本人?

 ってことは、このロータリークラブってのは、思ったとおりの詐欺まがい商法で、まんまと引っかかってしまったのかと思いきや、そのグループの二人いるヴォーカルのうちのひとりが、さあみなさんご一緒に、こう手を叩いてください・・チャンチャンチャンッ・・と客席をリードしている。

 何だよぉ、温泉の宴会じゃあるまいし、勘弁してくれよ、と思っていたら、それに呼応した客席の手拍子に合わせて、演奏が始まり彼が歌い始めた。♪ダークな背広にブーツを履いてぇ、チャンチャンチャン、チャンチャンチャン、フリフリフリフリフリフリフリフリッ・・・・♪ 何だ、なかなかカッコいいじゃないか、気がつくとオレはそれに合わせて足でリズムを取りだしていたのだった。

 そう、そのグループは、いま田辺エージェンシーの社長であられるドラムスの田辺昭知

率いるザ・スパイダースであったのだ。

 ヴォーカルのひとりは井上順、客席を手拍子でリードしていたのはマチャアキこと往年の大俳優である堺俊二の息子である堺正章であったのだ。

 そうオレが見た最初の日本のアーティストは、このザ・スパイダースであったのだ。

 そして、しばしの休憩タイムの後、そのサファリーズの演奏が始まった。

 ジャジャジャジャジャッ♪こんなの字で書いたって何の曲かわかりゃしないだろうけど、とにかく音符で書くわけじゃないんだからこう書くしかないよな・・・・

 ということで、先程のジャジャジャジャジャというのは“You’ve really got me”のイ

ントロのつもりでした。

 いきなりこんな曲のイントロで始まり、ギョッ、サファリーズってこんなカッコ良かったのかっ、知らなかった、不覚であった!

 あまりのカッコ良さにポーッとしてる間に曲は進み、大ヒットした彼らの“ワイプアウト”のドラムのフロアタムのイントロが始まった。ドコドコドコドコドコドドッコドコ・・・・これまたこんなカタカナ表記で書いててバカらしくなってくるけど、致し方ないことは仕方ない・・・・

 さてちょっとした興奮状態でコンサートは終了し、帰路についたのだが、さっきのあまりにカッコ良かったサファリーズの曲が忘れられなくて、その後、数日は、それが頭から離れることがなかった。

 しかしそれから数ヶ月経ち、その“You’ve really got me”という曲は実はイギリスのキンクスというグループの曲であってサファリーズの連中はそれをカヴァーしてたにすぎないということがわかり、ガッカリしたと同時にキンクスという存在と知り合えたことに異常な喜びを得ることとなった。

 我ながら微笑ましい青春の1ページである。

新大久保にある海城学園という

2017年11月17日
自分史

 新大久保にある海城学園という厳格極まりない、そして女っ気もまったくない男子校に入学した。

 在校当時は入試競争率が38倍という名門受験校ということだったのだが、中学からエレベーターで行ってるオレにはまったく関係のないことであった。

 確か中学の時だったと思うが、学校のイヴェントとして、映画観賞というのがあって、コンクリートの校庭に集合し、列を組んで新宿のミラノ座まで歩いて行った記憶がある。そこで観たものは、あのチャールトン・ヘストン主演の映画史上に燦然と輝く“ベン・ハー”であった。

 これは衝撃的だった。ジュダ・ベン・ハーとイエス・キリストの数奇な運命を描いた思いきりキリスト礼賛の映画であったのだが、ミラノ座の大画面で観る大スペクタクル映画は途中休憩を挟んでの四時間弱という長さながら、まばたきさえもどかしく感じられたくらいに素晴らしい体験であった。

 それまで子供の頃から映画はいっぱい観ていたのだが、ほとんど初体験と言っていいハリウッド映画との出会いをセットしてくれた海城には、感謝の気持ちでいっぱいです。

 そんなこんなで、オレの遊び場はほとんどが新宿でした。

 男子校でもあり、路上ナンパは日常の風景として、もっぱら三丁目というか三光町のあたりにたむろしてました。

 いまで言えばクラブということになるんだろうけど、当時、新宿には「The Other」とか「Apple」とかに代表される有名なディスコがいっぱいあって、日が暮れるとあちこちからハンパじゃない数の若者達(笑)が集まってくるのでした。

 オレは「螺旋階段」というとっても小さなお店が行きつけで、地下に通じる階段を下りると下北沢の「シェルター」程度の広さのダンスフロアがあり、真ん中には・・・あっ違う、地下に行くにはその真ん中にあるスパイラル(螺旋階段)を降りて行くんだった。ほとんどいつも暗闇で、チークタイムになるとさらにまた真っ暗になるので、不純異性交遊の場としてはうってつけでもあった。

 隅のベンチ?に座りに行くと、知り合いが女を膝に乗せ、彼女のセーターの裾から手を差し込んだまま、オレと挨拶を交わし、しばし轟音の中での談笑となる。

 かかっている曲はほとんどがモータウンのナンバーであり、だからこそオレはこの螺旋階段が行きつけだったのだ。

 モータウン・レコードというのはアメリカはミシガン州デトロイトにあるレコード会社で、車産業で有名なデトロイトということで、モータータウン→モータウンになったのはよく知られた話。

 で、そのモータウンにはオレの大々好きなダイアナ・ロス&シュープリームスやテンプテーションズ、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズ、リトル・スティービー・ワンダーにメリー・ウェルズ、あれ、何か大事なのを忘れてる気がする・・・とにかく“恋のキラキラ星”のごとくにR&Bアーティストが在籍しており、オレにとっては不純異性交遊もいいけど真っ暗闇の宝箱といった螺旋階段だったのだ。

 ある夜、年上の女二人と知り合うことがあって、話が盛り上がったのかどうか知らないが、場所を変えて三人で、とある地下の薄暗い部屋に行った記憶がある。

 お姉さん二人に挟まれるようにソファーに座ったオレの耳には、ジュークボックスから流れてくるシュープリームスの♪“ひとりぼっちのシンフォニー”・・・・

 そうか、ただナンパされただけだったのかといま書いていて気づくオレであった。

 そんなこんなでシュープリームスの大好きなこの歌を聴くたびに、甘く酸っぱく切なくときめく想いが脳裏をよぎっていくのです。

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