私のiTunesには『歓喜の歌』と『赤い夜』が連続して入力されている(『赤い夜』はTOSHIが1999年に発表したソロアルバム。パーカッションだけで構成されている)。楽曲「歓喜の歌」のラストに収録された川村カオリのセリフ(というより声)が終わると、約3秒間の沈黙が置かれ、『赤い夜』の「道」の打ち物が響きはじめる。これが妙に心地良い。つながりが自然なのだ。
サウンドの異なる2枚のアルバムが、どうして自然につながるのか。立川談志の言葉を借りれば「人間の業の肯定」が、両方のアルバムに刻まれているからだろう。それにしても2枚ともタフで頑固で、致命的に孤独なアルバムだ。
『赤い夜』に記録されたリズムは、表と裏というよりも、子音と母音といったほうがしっくりくる。管楽器のようなブレスがあって、決して流暢ではないがとつとつと音がしゃべっているというか、音の物語というか、TOSHIが己と音楽の関係をまさぐっているというか、それでいて実体のともなったリズムなのだ。とにかく、TOSHIというひとりの人間がもって生まれた骨太の拍が鼓膜を刺激する。
ところで、ここで改めまして述べるまでもなく、ミュージシャンのプロとアマを隔てるもの、それは歌唱や演奏の技術だけではない。隔てるものは複雑にしてとても怪奇だ。そしてそれに増して複雑怪奇なのは、プロとして活動し続けられるか否かである。「こうすれば続けられよ」というマニュアルは存在しない、残念ながら。
いままで私は、何人かのアマチュアミュージシャンと語る機会をもったが、彼ら・彼女らの「プロとアマを隔てるもの」の考え方に違和感を覚えることが多々あった。アマの多くが、プロとして活動し続ける複雑怪奇さに気づいていないのだ。『千夜一夜物語』のシャハリヤール王(=リスナー)とシェーラザード(=ミュージシャン)みたいな関係を。
こんなことを考えながら『歓喜の歌』と『赤い夜』を聴いていると、やっぱり音楽はiTunesのなかに閉じ込めておくものじゃないなと思う。
街中に解放すべきだとはいわないが、感情が刺激されれば身体が自然と揺れて、そこに共感できる複数人がいれば楽しさは倍増する。このように享受した感覚は、たとえ記憶が失われても命のなかに残る。人間社会がどれだけ変化しても、音楽がもつこの複雑怪奇な力は変わらないはずだ(チャールズ・ダーウィンにいわせると、「音楽は人間が授かった能力のなかで、もっとも不可解なもののひとつ」らしい)。
1991年2月19日、博多Be-1からはじまった「万物流転TOUR」は、広島ウッディストリート、大阪厚生年金会館、名古屋クラブクアトロと転戦し、2月27日の渋谷公会堂における「最終指令自爆せよ!」でファイナル、頭脳警察は自爆する。
そして3月に入って、『歓喜の歌』のレコーディングがはじまる。レコーディングは4月1日終了し、5月21日に発表された(オリコン初登場70位)。自爆したのでレコ発ツアーなどはとくになく、5月23日に浅草常盤座で変名バンド“悪たれ小僧”でワンマンライブだけが行われた。
セットリストは次の19曲(ベースはマルコシアス・バンプの佐藤研二。11、12、13、14、15、16、17にマルコシアス・バンプの秋間経夫[g]、18に菊池琢己[g]が参加)。
1. あやつり人形(PANTA&TOSHIのみ)
2. 月蝕と日蝕の谷間で(PANTA&TOSHIのみ)
3. やかましい俺のROCKめ(PANTA&TOSHIのみ)
4. 鹿鳴館のセレナーデ(PANTA&TOSHIのみ)
5. スホーイの後に
6. 最終指令“自爆せよ”
7. セフィロトの樹
8. R☆E☆D
9. Quiet Riot
10. 銃をとれ!
11. 悪たれ小僧
12. イライラ
13. ふざけるんじゃねえよ
14. 煽動
アンコール1
15. 万物流転
アンコール2
16. LIVE EVIL
17. 獲物の分け前
18. コミック雑誌なんかいらない
アンコール3
19. People
蛇足です。レコーディングに遊びにきた川村カオリに、PANTAはその場で即興で語らせました。そんな彼女の声で終わる「歓喜の歌」は、いま聴いてもとても魅力的です。個人的には、ここに記録された彼女の声から、カーティス・メイフィールドのアルバム『ニュー・ワールド・オーダー』のタイトル曲「ニュー・ワールド・オーダー」を思い出します。川村カオリもカーティス・メイフィールドも旅立ってしまいましたが、ふたりの声は多くのリスナーの命のなかに残っている。私はそう思っています。
「歓喜の歌」の川村カオリのロシア語のセリフ、訳せる人がいたら教えてください。
(フリーライター:須田諭一)