私は哲学のことは門外漢だが、ドイツの哲学者カール・ヤスパースに「人間は屋根の上に立つ存在である」という言葉があるらしい。小さなできごとでも、人間は転落する危うい存在だという意味だろうか。
屋根つながりで、「屋根の上の猫」を思い出した人は多いだろう。猫が屋根から落ちることはない。地上ではか弱い猫は、屋根の上では強かな存在になる。「屋根に立たせたら、人間よりも猫のほうが哲学的だなあ」などと笑ってしまった。ちなみに、私は「屋根の上の猫」は極上のラブソングだと思っている。
PANTAと哲学といえば、「万物流転」が有名だ。「万物流転」は、ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの「万物は流転している(この世界のすべてのものは、絶え間なく変化して終わることがない)」という世界観を転じて、「なにも変わらない」という思いを込めた楽曲である。その後、10年という時間をかけて「なにも変わらないように見えても、世界は少しずつ変わっている」と、PANTAのなかで歌の景色は変化しているようだ。
90年代頭脳警察が『7』のデモテープの制作のために、ビクターの青山スタジオに入ったのは、1989年12月8日だった。12月8日は、太平洋戦争の開戦日にしてジョン・レノンが暗殺された日、そして映画『ゴッドファーザー II』におけるヴィトー・コルレオーネの誕生日である(『ゴッドファーザー I』では4月28日)。
デモテープの制作は「万物流転」からはじまった。イントロから続く印象的な太鼓の音とリズムは、まずPANTAが自宅で使っていた「ドクターリズム」という小型リズム・マシンでつくられた。
アンデスやヒマラヤのような山脈を背にする平原。その青く澄み切った空に鳴り響く、獣の皮を張ったような太鼓の音。しかし平原も太鼓も、現実には存在しない。PANTAは存在しない音を思い描いていたのだ。
そんな太鼓の音をつくるために、ドラムのバスドラとフロアタムをはじめ、ティンパニや和太鼓などをTOSHIだけでなく、PANTAと後藤升宏も叩いた。マイクの位置を工夫し、チューニングや詰め物を代えながら何日も模索する。エフェクターを使わず、生の音を録音したいというこだわりが、「存在しない音探し」をさらに困難なものにした。こうして完成した音に対して、後にTOSHIは「満足度は7割ぐらい」と語っている。
PANTAはキーボードの音色にもこだわり、ハルモニウムというインドの鍵盤楽器を要望する。スタッフの努力も虚しく、見つけることのできなかったレアな楽器だ。しかし、なぜこんなにめずらしい楽器の音を知っていたのだろう。
70年代、PANTAとTOSHIは当時のマネージャー・横川純二を介して、3人のクリシュナ教徒と交流をもつ。3人のうちひとりはかわいい女性だったという。彼らを渋谷のアパートに住まわせて、共同生活とまではいかないものの、PANTAとTOSHIは、クリシュナ教徒と行動をともにするようになった。
布教のために、3人はクリシュナ教特有のオレンジ色の衣装で、新宿の伊勢丹デパートの前などで楽器を演奏しながら踊るわけだが、このときハルモニウムを使っていたのだ。
PANTAはフィンガーシンバル、TOSHIは太鼓を叩きながら、やはりオレンジ色の衣装をまとっていっしょに踊ったという。3人が「11PM」という深夜テレビのワイドショーに出演したときも、PANTAは参加している。
それまでの頭脳警察の楽曲に、アジア的な色調が感じられなかったこともあって、はじめて「万物流転」を聴いた私は、若干の戸惑いを感じたものだ。はじめから受け入れられたわけではなかった。しかし、クリシュナ教徒とのナイスなエピソードを知って、落ち着いて聴けるようになった。屋根の上の人間から猫に変身できたように。
ついでながら、YouTubeで「ハルモニウム」の演奏を確認することができます。興味のある方はどうぞ。ただし、ハルモニウムはいくつもの音色を奏でられるので、PANTAがどの音色をイメージしたかはわかりません。
そんなハルモニウムですが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドに在籍したニコが、ソロアルバムで好んで使っています。また、ティラノザウルス・レックスのアルバム『Unicorn』に収録された「Iscariot」や「Cat Black」、キングクリムゾンの『Islands』の「Islands」でも使われていると思われます。「思われます」というは、私の推測で確証がないということです。まちがっていたら、ごめん。
(フリーライター:須田諭一)