父親が米軍キャンプに勤めていたこともあって、ボロ家ではあったが、家にはアメリカ人の来客などもあり、連れて来た子供と一緒に遊んでいたことも記憶にある。
子供ではあったが、やたら体毛が濃いのに驚いて、その産毛を引っ張ってからかい、あげくに取っ組み合いの喧嘩になってしまったこともいまになっては懐かしい想い出です。
時たま祖母の作った弁当を持って、基地で働く父親に届けに行くことがあった。
フェンスに囲まれた中央にゲートがあり、白いヘルメットをかぶった衛兵が二人、小さな電話ボックスのような詰め所に控えている。
中村です、と名前を告げると、ちょっと待っていてね、とおもむろに電話を取り上げ、その部署らしきところに連絡して、なにやら英語で喋っている。その手際よさに、フェンスの外の日本では、まず見られない規律という空気に触れたような気がしていた。
しばしゲートで待っていると、部下にジープを運転させて、オリーブ色の軍用服に身を包んだ父親がやってきて、ご苦労と敬礼をしながら弁当を受け取り、手を振りながらまたジープに乗って去って行く。
この光景は子供心にいたくカッコいいものとして目に焼き付いてしまっている。
所沢では市民との交流を図るイヴェントとして桜祭りというのが開かれていて、その日だけ基地が一般に公開される。
父親が忙しいので、父親と仲のいいメリック軍曹という人物にオレは預けられ、彼が親身になって一緒に遊んでくれた。
ある戦車の前にくると彼に乗れと促され、上ろうとしたその鉄板の厚さに、ひどく感動した覚えがある。
てっぺんの回転砲塔にたどり着くと、上部がオープンになっていて、変な戦車だなぁと思いながらも、そこから中に入り込み、操縦席に座り込んだ自分はすでに気分はいっぱしの戦車兵と化していた。
遊び疲れたオレが、芝に覆われた基地内の小高い丘に寝そべっていると、隣に座って彼がハーモニカを吹き出した。
夕闇が迫り、夕陽が彼の横顔に深い陰影を作りながら、目をかすかに閉じたオレの耳には、彼のハーモニカのメロディーが、どうしようもない感情の初体験として、押し込まれ
て来たのである。
まだどこへも遠くへなど出かけたことのない子供に、それは耳ではなく、頭の先からつ
ま先まで、郷愁というような感情で包み込まれてしまうような初めての体験であった。
家へ帰り、かつていままでなかったであろう真剣な眼差しで、父親に、メリック軍曹が
吹いていたあの曲を教えて欲しいと懇願していた。
数日経って、父親に英語の文字が書かれた紙切れを手渡された。
小学生であったオレには英語などわかろうはずもなく、父親はその英語にカタカナで読
み方を書いてくれた。
オゥ ザ コットン プライズ イン ザ メイド イン ザ ホーム〜♪
後に知ることになる有名なフォスター(Stephen Collins Foster 1826〜1864 アメリカの作曲家)の“ケンタッキーの我が家”であった。
メリック軍曹のハーモニカは、それは基地内でも評判のものだったらしい。
さらに黒人グループと集団で喧嘩になったときにも先頭にたって暴れまくる腕達者でもあったらしい。
あの丘で吹いてくれたハーモニカは、オレだけのために吹いてくれたわけでもないと気がついたのは、ずいぶんと経ってからだ。
この極東くんだりまで来て、夕闇迫る丘の上に座り、吹いた“ケンタッキーの我が家”は、彼の気持ちそのものだったといまは確信している。
その後、彼がどうなったのか知るすべもないが、これは“J”という歌の中で、オレの想いとして唄に託していることは知ってる人も多いだろう。
そして、オレは自分の曲のどこかに必ずフォスターの匂いをかぎつけてしまう。
特にスローな曲の場合、それは顕著に現れ拭い得ないトラウマとして、いまも仲良く一緒に暮らしているのだ。